家主のいなくなった家はあっという間に朽ちていく。
 そこかしこに残った祖父が生きていた頃の名残を目に、夏生は立ち尽くす。蝉の鳴き声が聞こえる。さして広くない二階建ての家に響くのは、蝉の声と夏生の呼吸が主たるものだ。あるいは家人がいれば笑い声なり話し声なりがしたかもしれないが、しかし家主たる夏生の祖父は先月亡くなった。あとは廃れるだけの家の中は静かなものだ。
 蝉の声、夏生の呼吸、衣擦れの音。それに時折、小さな水音が混じった。
 頬を流れた汗を拭うと、家主不在のまま動き続けている時計が二回鳴った。夏の日差しがもっとも強く照りつける時間がやってきたのだ。
「ナツオ、どうしたんです?」
 また水音がした。小さな泡が割れる音に似ている。事実、水泡が割れているのだろう。古びた樫のテーブルに置かれたフラスコから声が、水音がする。
「ナツオ?」
 訝しげな声にようやく振り向けば、透明な水が満たされたフラスコの中に小さな、本当に小さなヒト型の生物が浮かんでいた。
「ナツオ、ナツオ?」
「……聞こえてるよ」
 フラスコの中でふよふよ浮かぶ生き物に、夏生はなんとか答えた。汗を拭うふりをして表情を隠す。液体の中からどうやって声を発しているのか、夏生の手のひらに収まるほど小さな生き物の言葉は夏生によく届く。それこそ、聞き逃すことを許さないと言わんばかりの声色で。
「ああ、よかった。ナツオ、二時です」
「おやつの時間は、あと一時間後だ」
「少しくらい早くても問題はないでしょう」
「だめだ」
 素っ気なく言えば、ちぇ、とかわいらしい舌打ちと共に生き物が水中で宙返りをした。器用なことだ。
 首からかけていたタオルで改めて顔を拭き、夏生は大きく伸びをした。頬を軽く叩き、逃げてしまったやる気を捕まえる。そっとフラスコを見やれば、中の生き物はとうの昔に興味をなくしたかのように、狭いフラスコの中を漂っていた。


 祖父の遺品整理を任された夏生が無人の家にやってきたのは、つい四日ほど前のことだ。
 何故任されたかと言えば、夏生が一番、祖父の家に近いから、ということが一つある。夏生の両親の住む家は祖父の家から遠く、逆に夏生の下宿先は意外と近い。働いている両親が仕事を休んで来るよりも、大学が夏休みに入った暇な夏生を駆り出す方が効率的だと考えたのだろう。
 もう一つの理由としては、夏生は祖父によく懐き、祖父もまた何人かいる孫の中でも夏生を特にかわいがったことが挙げられるだろう。彼の死を孫の中で一番に嘆いたのも夏生であることは間違いない。両親からの頼みに迷うことなく応じた。
 その祖父の書斎に奇妙なものがあることに気付いたのは、偶然だったのか、それとも祖父が仕組んでいたことだったのか。
 彼の書斎に入ったことはなかった。幼い頃からそれだけは許してもらえなかったのだ。それは夏生だけではない、親族全員に一致したことだった。故に、遺品整理を始めて二日目にして、夏生は生まれて初めて彼の書斎に足を踏み入れた。
 高い本棚の更に上にある窓のせいか、部屋は薄暗く蒸し暑かった。壁に並んだ本棚にはびっしりと本が並べられ、タイトルは日本語にとどまらなかった。学者然とした祖父は博識だったが、彼の知識の源はこれらの本だったのだろうと考えると妙に感慨深く、そして、それらを処分しなければならないことに気分が沈んだ。
 だが沈んだ気分は、部屋の隅にぽつんと置かれた冷蔵庫の存在に気付いてから焦りに変わった。祖父の死後にある程度の掃除はなされていたが、書斎については誰も入らなかったらしい。台所の冷蔵庫は中身をすべて処分しているが、誰も入らなかった書斎の冷蔵庫など、何が入ってどうなっているか分かったものではない。いくら冷蔵庫とはいえ、腐る物は腐る。それを想像して暑いというのに鳥肌が立った。
 いくらかの躊躇いの後、夏生は深く息を吐いて冷蔵庫に手を伸ばし、一息に開けた。
 冷蔵庫の中は幸いなことに、何も起こっていなかった。覚悟していた悪臭は無く、ただ冷たい空気がそこから流れてきた。食べ物が一切入っていなかったのだ。
 だがそれに安堵を覚えることは出来なかった。中にはワインボトルに似た形状と色合いのボトルが何本も入っていたのだ。所狭しと並べられたボトルには何かの液体が満ち、それが妙な違和感となって夏生の目に映った。
 だが、それより何より夏生の目を惹いたのは、三角フラスコだった。
 透明な液体で満たされた三角フラスコの中には、夏生の中指ほどの大きさしかないヒトが体を丸めて浮かんでいた。
 冷蔵庫を一度閉め、深呼吸をし、また開けた。暑さに幻覚でも見たか、とまず自分の目を疑う。あるいは夢か何かかと思ったが、頬をつねってみても夢から覚める気配はなく、当然のように痛い。もう一度開けてもやはりフラスコとその中身は変わらなかった。それどころか正体不明の生物は小さな体を震わせたように見えた。呆然とした夏生のすぐ側で、ピー、と無機質な音が鳴った。冷蔵庫の扉を一定時間開けっ放しにしていると鳴る警告音だと、しばらく後で気付いた。
 その警告音が引き金となったらしかった。大きく体を震わせたよく分からない何かは瞼を押し上げ何度か瞬きをした。作り物ではない、生きているのだ。もう一度警告音が鳴ったが、夏生の耳には遠い音のようにしか聞こえなかった。目の前で覚醒していく奇妙な生物の方が重要だった。
 生き物はどうやら水面に浮かばないらしい。どういう原理なのかは分からなかったが水の中に浮いたまま手足を小さく動かした。そして水中では意味がないだろうに、寝起きの人間がするように目を擦り、髪の毛を整え、完全に起きた。
 いい加減にしろと言わんばかりの勢いで警告音が鳴る。
 夏生と生き物の目が合った。
「あら、おはようございます。今日は少し寒いですね。ところでどちら様で?」
「……喋った」
 これが、二日前の出来事である。


 奇妙な生き物は食事に金平糖を要求した。
「金平糖は素敵です。堅いけれども口の中ではあっという間に溶けてあっさりしている。糖分は考えるエネルギーになる。何より色が良い。この淡い色合い、とても美しいと思いません?」
 朝、昼、夕の一日三回、夏生はこの生き物に金平糖を与える。一度に一粒水の中に落とす。そうするとこの生き物は器用にキャッチして、小さな口いっぱいに頬張るのだ。
 小さな生き物は名前をサエとだけ名乗った。口ぶりからして、祖父が死ぬ前から冷蔵庫の中に入って眠っていたようだった。だから少なくともこの一ヶ月間のことは何も知らず、祖父の死さえも知らなかった。夏生はただ、自分の名前を名乗り、孫だと言うことだけを伝えた。
 サエは、祖父の死に大して驚きはしなかった。予感していたのだという。
「年齢が年齢でしたから。死ぬのは人間として当然、仕方のないことです」
 そう言って、サエは小さな顔に懐かしむような表情を浮かべた。
「とはいえ、お別れの挨拶が出来なかったのは残念です。彼は良い人でした」
 二日間でサエは自分の周りに起こったことを正確に把握した。その上で夏生に自分の世話を要求した。ヒトの言葉を話す以上、夏生も放っておく気にはなれなかった。家の片付けをする時にはフラスコを作業する場の近くまで持って行き、外に出る際は書斎の冷蔵庫の中に入れた。サエはフラスコの中から夏生の作業をじっと眺め、時には何かを話し、冷蔵庫に入れると寒い寒いと訴えた。
 壁掛け時計が三回鳴ったところで、サエがおやつ、おやつ、と騒ぎだし、ようやく夏生は作業の手を止めた。
「三時です。約束のおやつの時間です」
「おまえ、食い意地張り過ぎだろう」
「そんなことはありませんよ。食事は生きていく上で必要不可欠な要素です」
「おやつは別にいらんだろ」
「いいえ、おやつをとることはすなわち心の休息、心の栄養補給です。それが無いなんてわたしには耐えられません」
 嘆くふりをするサエの目の前で、夏生は無言で飴玉を割った。毒々しい赤色のイチゴ味はなかなか上手く半分には割れてくれない。少し悩んで四分割にし、二つをフラスコに落とし、残り二つを自分の口に放り込んだ。とうていイチゴとは思えない甘ったるい味がする。
 金平糖の他にサエが欲しがったのは飴玉だけだった。この奇妙な生物の体は、どうやら糖分だけで成り立っているらしい。それ以外を口にする気はない、と頑として譲らなかった。
 水の中で器用にキャッチした二つの欠片を両手にサエは夢中で頬張る。小さな体に飴玉半分は多いのではないかと思ったが、その食べっぷりには残す気配がない。
 夏生は合成甘味料の固まりを噛み砕き、台所から持ってきたお茶をべたつく口の中の味覚ごと飲み干した。暑さで若干溶けていた表面が、いまだ舌の上を蹂躙しているような気分だった。適当に選んで買ってきたそれは、どうやら夏生の舌には合わないものだったらしい。次に買うときはもっとさっぱりとした物にしようと思う夏生の横で、サエは一心不乱に飴の欠片を噛み砕いていた。
 二杯目のお茶を注ぎながら、夏生はサエの姿を観察した。十センチ程度の四頭身で、声も高い子供のそれだ。だが話す言葉は落ち着いたもので、内容もかつての祖父を思わせる博識ぶりだった。
 いくら小さいとはいえフラスコの中は狭いだろうに、サエは気にした風もない。ただ白い裸体を水中に晒し、作業する夏生を眺めたり、会話を交わしたり、金平糖を食べたり、眠ったり、ごくごくふつうに生きている。いろいろと腑に落ちないことはあるが、とりあえず、この奇妙な生物は夏生に害をなさないだろうことだけはなんとなく感じ取ることが出来た。
 いつまでも見ていると不審げな顔をされるだろう、と夏生は目を逸らし、そこでポケットに入れっぱなしにしていた物を思い出した。
「サエ、ちょっと良いか」
「はい、なんでしょう」
 飴をあらかた食べ終えたサエは夏生の声に答え顔を上げた。まるでビーズのように小さな瞳だと驚きを越えて感心する。それを表情に出さないよう努めながら、きちんと見えるように、指先で摘んだそれをガラスに近づけた。
「これ」
 棚の奥でひっそりと転がっていたビー玉は涼やかな青色をしていた。遊びに来た夏生や他の親戚の子供達が忘れていったのか、祖父がどこから買ってきたのか。棚の中の整理をしていて偶然見つけたのだ。傷一つないガラス球を見たサエは、明るい色の目をぱちぱちと瞬かせた。
「ビー玉ですね」
「うん。これ、いらないか。インテリア気分に」
 ビー玉を見つけた夏生の脳裏に閃いたのは、液体に満ちた殺風景なフラスコだった。ただ透明なだけのガラスの中にこの純粋な青色を混ぜたらどうだろうか、と考えたのだ。金魚鉢でさえ水草のたぐいを入れるというのに、この小人のフラスコは他に一切の物がない。
 それとも何も入れないのは何か理由があってのことだったのか。とにかく夏生はビー玉を見せ、いらないと言われたら捨てるくらいのつもりで尋ねた。サエはビー玉をじっと見つめていた。かと思うとふいと顔を背け、フラスコの中で一回転する。まるで魚のようなしなやかな動きだ。その勢いで水面近くまで浮上すると、何も前触れもなく小さな両腕をフラスコの口に向けてさしのべた。
「良いですね、それ。ください」
「おう、分かった。けどなんだその腕は」
「欲しいので。落としてください」
「やめとけ、おまえ小さいし。ビー玉は重いんじゃないか」
「良いじゃないですか、すぐにでも触ってみたいんです。重かったら下に落としますから」
 どうやら夏生の思った以上にお気に召したらしい、期待に満ちた顔で腕を伸ばすサエに怪我をさせないよう、夏生はビー玉をそっとフラスコの口から内側に落とした。着水の音と共にサエの細い両腕が青いビー玉を支える。
「ああ、確かに重いですね」
 サエは落ちたガラス玉を全身で抱きしめ、嬉しそうに笑う。誕生日に欲しかった物をもらった子供のようだ、と夏生は思った。


 青色の金平糖を落とす。
 サエが入ったフラスコは居間のテーブルの上だ。金平糖を頬張るサエをよそに夏生は片付けを続ける。書類はファイルに種類を分けて詰め、小物の類は選り分けて段ボールに入れる。と言っても祖父はあまり物に執着のない人で、家の中は何をせずとも空っぽな印象だった。むしろ書斎の本を片付けるのが本番と言って良いだろう。どんどん物がなくなっていく棚を見つめながら、垂れてきた汗を拭う。
 かつん、かつん、と音がして振り向けば、いつの間にか金平糖を食べ終えたサエがビー玉を手にしては底に落とし、手にしては底に落としていた。あの後更に見つけたビー玉を入れたおかげで、透明ながらフラスコの中は色鮮やかだ。青色、水色、緑色、そしてサエが落とす赤色。ガラス同士がぶつかり合う音はサエの声と同じように、夏生の耳によく届く。
「サエのそのフラスコは、洗わなくて良いのか」
 作業の手を止めないまま問えば音が止む。
「出来れば洗って欲しいですね。中身も交換して欲しい。さすがにずっと同じのに浸かっているのは嫌です」
「じゃあ、今からやるか」
「片付けはしなくて良いんです?」
「別に良いよ、まだまだ」
 時間はあるしな、と首に掛けていたタオルを取り払い、自分の頭に被せて後ろで結んだ。服の袖を肩まで捲り上げ、ついでにジーンズも膝まで折る。やろうと決めたらすぐ行動に移すのは夏生の美点だ。揺らさないようにそっとフラスコを手に取ると、浴室に向かった。背後で時計が一度鳴る。
 サエが浮かんでいる液体は水ではなく、もっと別の何かなのだと言う。ではどうすれば良いのかと聞けば、書斎の冷蔵庫のボトルが交換用の液体だと言われ、ひとまずそれを取りに行った。相変わらず書斎は暑かったが、冷蔵庫を開けばその冷気が肌を撫でて心地良い。所狭しと並べられたボトルの中から一本取り出し、名残惜しくも冷蔵庫の扉を閉めた。
「ところでおまえ、この液体の中から出ても問題ないのか」
「問題はあります。わたしはこの液体の中以外では生きてはいけません」
「じゃあどうするんだよ」
「別のフラスコを持ってきて、それに新しい液体を入れた後にわたしを入れれば良いじゃありませんか」
「あるのかよ」
「何故無いと思うんです?」
 呆れたように肩を竦められ、いささかむっと来たが、反論はしなかった。無言のままフラスコを探しに行こうと身を翻すと、書斎に入って右側の一番下の段ボールの中です、とサエの言葉が背中に投げかけられた。
「へ」
「フラスコです。あと、フラスコを洗うためのスポンジは書斎に入って正面の本棚の一番下の段ボールです」
「ごめんもう一回」
「ですから」
 もう一度繰り返されたサエの言葉通り、フラスコもスポンジもそこにあった。本ばかりの書斎の中で段ボールは目立つはずだが、奇妙なことに今の今まで夏生は気付かずにいた。サエに言われなければ見つけるまでしばらく時間がかかったかもしれない。心の中で感謝しつつ、ビーカーや試験管が並べられた段ボールから使う物を取り出し、それ以外はそっと元の位置に戻す。
「見つかりましたか」
「見つかった。ありがとう。ところで」
「どういたしまして。なんですか」
「フラスコってどうやって洗えば良いんだ?」
 液体の中で小人が大きな溜息をつく。こぽこぽと一際大きな水泡が水面に向かって昇り、割れた。


 サエのフラスコの洗浄と交換は、一週間に一度行うと約束を交わした。二回目の交換を行った頃にはもうすでに、夏生の中でサエという存在はそういうものだという区切りがついていた。相変わらず金平糖を食べ、飴玉を食べ、ビー玉で遊び、水の中にぷかぷか浮いている。
 家の中の片付けはあらかた終わり、残るは書斎だった。だが夏生は祖父の書斎に、片付けるわけでもなく入り浸った。夏休みはまだ一ヶ月近く残っていると考えると、書斎を片づけようという気にはなかなかなれなかったのだ。おかげで書斎は変わった様子がない。あなたは何のためにここに来たんですか、と言うサエの声は潔く無視した。
 クーラーも扇風機もない書斎はひどく息苦しいというのに、妙に居心地が良かった。祖父の気配が未だ色濃く残っているからかもしれない。
「暑くないか」
「まあ、液体の中ですから、そんなでも。でも、出来れば冷房暖房がしっかりしている部屋が良かったですね。そこがあの人への唯一の不満点です」
「てことは、サエはずっと書斎の中にいたのか」
「そうですね、基本的には書斎の外には出ませんでした」
「まあ、その調子だしな」
「ですが、よく庭は見せてもらいましたよ」
 書斎の埃っぽい床に座り込み、夏生は机に置いたフラスコを見上げた。その拍子に視界に入った窓からは青空がのぞいている。だがそれだけで、天井近い窓からでは庭を見ることは叶わなかった。代わりにフラスコがきらきらと陽光に輝いて目に焼き付く。
「五月くらいになると、庭に真っ白な花が咲くんです。オーニソガラムと言う花なのですが。それが好きでした」
「じゃあ、もう咲いてないのか。残念だ」
「そうですね。ですが今なら向日葵が咲いているでしょう」
 ぷくりと小さな泡が水面に現れすぐに割れた。水音は聞いているだけで体感温度が下がるようだ。そういえば幼い頃は庭にビニールプールを置いて遊んだな、と思い出した。まだ生きていた祖父は、縁側でにこにこ笑っていた。それが酷く懐かしい。
 背もたれにしていた本棚から適当に一冊本を取り出すと、夏生はそれをやはり適当に開いた。だが、見慣れない単語ばかりですぐに読むことを諦める。本棚を見渡せば様々な本があるが、それらはあまりにまとまりがなく、祖父が乱読家だったことくらいしか分からない。シェイクスピアが置かれた横には経済学入門という教科書じみた本が並び、森鴎外の隣では植物図鑑が窮屈そうに収まっている。家庭の医学云々という本の側にあるのは歴史書だった。
 諦めた本を元の位置に戻す。
「おや、読書は?」
「諦めた。読めない」
「有名な本ですよ。ゲーテの『ファウスト』です」
 底に沈んだビー玉同士を転がしぶつけ合うサエは、物事をよく知っていた。不思議なことではある。フラスコの中から出ては生きていけないこの生物が、外に出ることはない。そして、本を自力で読むことも。
「……なあ、サエ」
「はい、ナツオ」
「おまえ、なんでも知ってるよな」
「そりゃあそうです。そういう風に出来てるんですから」
 さも当然だと言わんばかりにサエは答える。かつん、かつん、とガラス同士がぶつかり合う音の狭間で時計が鳴る。一回。そういえば昼食を食べていなかった、と考え、一度立ち上がり台所からサエの分の金平糖だけをとりあえず持ってきた。
 白色の金平糖を落とす。
「全知全能みたいなもんか」
「そんな感じですかね」
「便利だな」
「驚かないんですか」
「あんまり」
 冷蔵庫の中をのぞいた時の驚きに比べればどうということでもない。むしろ存在自体が怪しいのだから、今更何があっても大して驚かない自信があった。サエが心なしかつまらなそうにしているのは、夏生が驚く姿を期待していたからなのか。
 落とされた金平糖をキャッチし損ねたサエは、ビー玉と一緒になって底に沈むそれを米粒のように小さな指先でつついた。丸くない金平糖は綺麗に転がらない。水の中に入れたせいなのか、ぽろりと小さな角がとれた。サエはとれた角を手にすると、いつものようにかじる。
「そういえば、あなたのお祖父さんも驚きませんでしたね、あまり」
「そうなのか」
「ええ。初めて会った時、そりゃ、まあ、ちょっと驚いて尻餅つくぐらいはしましたけど。その後は特に何も」
 いくばくかの沈黙を挟んで、サエは言う。
「驚くどころかあの人は喜んでいました。話し相手が出来た、と」
「話し相手?」
「ええ。だって寂しいでしょう、一人は」
 金平糖を両腕で抱えたサエはふわりと水中で浮いた。体を丸める姿は母胎の中で眠る胎児のようにも見えた。台所に金平糖を戻してこようとして、なんとなく夏生は一粒取り出し自分の口に放り込む。砂糖の固まりは噛み砕けばあっさりと舌の上で溶けてしまった。
「じゃあ、サエ。おまえは祖父さんがいない間、どうだったんだ。寂しくなかったのか」
「ずっと寝てましたから」
「起きてたら?」
 サエは答えない。
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