四度目のフラスコ交換をした。
 書斎の片付けに手をつけはしたが、遅々として進まなかった。並べられた本を手に取ると、ついつい開いてしまうからだろう。昼頃見つけた本を手に、気づけば夕方だったという日もあった。
 サエのフラスコの交換と洗浄は気分転換でもあった。まだ半分以上残った本棚を残し、交換用のフラスコとビーカーにスポンジ、冷蔵庫の中のボトルを抱えて浴室に行った。そのうち書斎の冷蔵庫も掃除しなければならないだろう。ボトルはまだ、大量に残っている。
 液体に浸かっていなければ生きていけないとサエは言ったが、ほんのわずかな時間であれば空気に触れても問題はないらしい。小学生の頃、クラスで飼っていた金魚の水槽の水交換を思い出した。空気に触れるとぴちぴち跳ねる金魚を大急ぎで水を張ったバケツに移動させていた。大きな水槽の水交換は子供たちには大変だったが、夏生はもう子供ではないし交換するのは水槽ではない。ましてや、サエは魚ではない。
 一度水洗いしたフラスコにボトルの中身を移す。ボトルの液体すべてはフラスコには入りきらないので、残りはビーカーに入れる。新しい液体が入ったフラスコは一度他のところに置き、次に手に取るのはサエが入った方のフラスコだ。
「やるぞ」
「はい、どうぞ」
 一言おいて、夏生はそっとフラスコを斜めに傾けた。タイルに落ちた液体は、水のようにさらさらとしていて匂いはない。つられて中のサエやビー玉も傾くが、気にせず水を落としていく。
 更に傾かせれば、サエの小さな体が口から出てきた。それをキャッチすると、すぐにビーカーに入れてやる。ビーカーはフラスコより更に狭いが、少しの辛抱だ。後は残ったビー玉を取り出して、そちらは洗面器に放り込んだ。液体をすべて排水溝の上で流せば、サエが入っていたフラスコは空になる。
 四度目にもなればフラスコの洗浄は五分もせずに終わった。ビー玉もきれいに洗い、新しいフラスコの中に入れる。
「ねえ、ナツオ」
「うん?」
 最後にサエをフラスコに入れようとビーカーを手に取ったところで、無言だったサエが口を開いた。
「いえね、ずっと考えていたんですけれど。あなた、私を怖いと思ったことはないんですか」
「怖い?」
「人は、得体の知れない物を見たら恐怖を抱くのが普通ですよ」
「じゃあ、得体が知れないっていう自覚はあるんだな」
 からかって答えれば、サエは馬鹿らしいと言いたげにため息をついた。
「なんでしょう、聞いた私が愚かな気がしてなりません」
「なんでだよ。間違ったことは言ってないだろ」
 ビーカーに指を入れると、サエはふわりとそちらに身を寄せた。慎重に指でつまみ上げる。触れたサエの体は液体で濡れ、体温らしい体温がない。しかし確かに人のそれに似て柔らかい。
 それが恐ろしくないのかとサエは問う。
「正直、おれにも分からないよ。怖いとかそういうのを感じる前に、まず驚いたからな。確かに得体は知れないが、なんでだろう、祖父さんを知ってたからかな、親近感がわいたのかもしれない」
 力を込めると潰れそうな小人を、ゆっくり新しいビーカーに移した。
「だからなあ、サエ」
「はい、ナツオ」
「祖父さんと一緒にいてくれてありがとう」
「そうですか。それはどういたしまして」
 洗い立てのビー玉に抱きつきながら、サエは優しく微笑んだ。


 桃色の金平糖を落とす。
 九月も半ばに入り、昼の暑さはまだ残りながらも夜は涼しい風が入ってくるようになった。そろそろ腰を入れて書斎を片付けなければならないだろう、と、夏生はようやく覚悟を決めた。決めてしまえばあとは早い。部屋を埋め尽くす本棚の本一つ一つに手をかけ、段ボールにしまい込む。他の物と同じように、段ボールにしまい込まれた祖父の本達は父や他の親戚達に引き取られていくだろう。
 書斎の片付けをしつつも、冷蔵庫の中身も何とかしなければならない。そこまで考えてようやく気付いた。サエは一体どうなるのか、ということにだ。
 冷蔵庫を開けて閉める。残ったボトルの数がそのままサエの寿命のような錯覚に陥った。だが確かに、液体をすべて捨ててしまったら、もうフラスコの交換は不可能になる。交換は出来ればして欲しいと言っていたが、出来なければどうなるのだろうか、やはり、
「ナツオ」
 冷蔵庫の前に立ち、ぐるぐると考えていた背中に声がかかった。不思議な響きを伴った、聞き間違えるはずもない、サエの声だ。
「あなたはもう少しで帰るんでしょう」
「ああ、夏休みが終わったら学校が始まるからな」
「そうですか」
 そこでサエの言葉は途切れた。
「なあ、サエ、おまえはどうしたい」
「と、いうと」
「そのまんまの意味だ」
 背を向けたまま問えば、背後ではガラス同士がぶつかり合う音がした。沈黙は長くはなかった。サエはああそうか、と嘯く。
「あなたが気に病むことではないですよ。わたしのことは、放っておいてください」
「放っておくって」
 引きつった声が出た。みっともなく震えそうになる喉を、深呼吸をして落ち着かせる。
「仮にも、生きてるヤツをか。引っ越しでペットを置いていくようなもんだぞ」
「わたしはペットではなく、得体の知れない物ですから問題はないでしょう。そのままどこかに置いていけば良い。あるいはどこかに埋めても」
「まだ根に持ってんのかそれ。置いていったとして、おまえはどうなるんだ」
「あなたが見つけたときと同じです。わたしはその間寝てますよ。眠っていれば、いつか誰かがまた私を見つけるでしょう」
 至極当然のことのような物言いに、夏生はようやく振り返った。サエはフラスコの中に浮いて、小さな両目で夏生を見つめていた。さっき入れたばかりの金平糖は欠片一つも残っていない。
「これはあなたのためでもあるんです。ナツオ、全知全能であることが何を示すか、分かりますか?」
 首を横に振れば、乾ききった髪の毛がざわざわ揺れる。
「いつの世にも、知識を欲する人間はいるんです。そして、得た知識を悪用する人間も。あなたはそんな人間には決してならないと、言い切れますか」
 サエはあくまで諭すような口調だった。夏生が黙っていれば、母親が子に教えるような穏やかな、しかし有無を言わせない調子で続ける。
「だからなんです。わたしはあなたに、そんな愚かな人間になって欲しくない。今はそうでなくとも、長く付き合えば考えは変わっていく。怖くないと思った物が怖い物に変わることだってあるんです。あなたの祖父が私を冷蔵庫に入れていたのも同じです。彼は賢明だった」
 死を目前に控えた祖父は、話し相手ができたと喜んだサエを何故、冷蔵庫に入れていたのか。どうして誰も入ることを許さなかった書斎の、そんなところに入れていたのか。事実は思ったよりも静かに夏生の中で受け入れられた。
 それでもやはり、夏生は言い募る。
「なあ、サエ、それでおまえは寂しくないのか」
 いつかの問いに似ていた。次に誰かに見つかるまで眠り続けるのだというこの奇妙な生物はやはり答えなかった。
 ただ、水の中でくるりと一回転する。
「いつだって、お別れはしなきゃいけないものでしょう」
 だからここでさようならです。サエはいつものように、優しく微笑んだ。


 溶け始めた金平糖をすべてゴミ箱に入れた。
 遺品の入った段ボールはすべて玄関に出した。がらんとした家の中は物寂しく、それでもなお、誰かが住んでいたという気配だけが残っている。それは夏生が未だにこの家で生活を営んでいるからなのか、それとも祖父の名残か。どちらにしろ、夏生はあと数日でこの家を出る。
 壁掛け時計が十二回鳴った。
 家を出る前にやっておこうと考えていたことがあった。庭の草むしりだ。タオルを首からかけ、シャツの袖を捲り、縁側からサンダルを突っかけて庭に降りる。向日葵の葉は既に枯れ始め、それとは逆に雑草がこれでもかという具合で伸びきっている。それら一つ一つを掴み、引っこ抜く。足に絡みつく草を振り切り、かき分け、時には根本にスコップを突き刺し、湿った土を穿った。土に塗れた草の根は驚くほど白い。
 頭上から降り注ぐ日差しは秋に近付き金色を帯びつつある。それでも、シャツからのぞく腕を焼こうとするだけの気概はあったようだ。庭の草むしりを終える頃には肌がひりひりと痛んだ。
 泥だらけの手を洗い、台所で麦茶を一杯飲み干し、休む間もなく書斎の扉を開く。片付け終わった書斎に本は一冊もなく、棚は寂しそうにそこにあるだけだ。唯一机の上に置かれた段ボールを開けば、スポンジやフラスコやビーカーが並んでいる。その中から夏生はスポンジとビーカーを取り出した。
 そして、鈍い稼働音を響かせる冷蔵庫の前に立つ。
 中に入っているのは液体に満ちたボトルと、フラスコの中で胎児のように丸まって浮かぶサエの姿だった。その両目は固く閉じられぴくりとも動かない。揺れることのない液体はまるでゼリーのようだ。
 慎重にフラスコとボトルを取りだし浴室に入る。荷物を全てタイルの上に置くと、居間に戻ってビニール袋を持ってきた。中に入っていたのは口の大きなジャム瓶で、夏生は金色の蓋を開けて中を水洗いする。
 慣れた作業は交換用のフラスコがジャム瓶に変わっただけだ。ボトルの中身を慎重に注ぐ。この液体の正体も知らぬままだったな、と夏生は丸まって眠るサエを見つめた。数日前、何の前触れもなく眠ってしまったサエは、夏生の声に反応することはなかった。ただ幼い子供のような無垢な寝顔を水の中で晒している。
 口の広いフラスコのおかげで、丸まったサエは呆気なくフラスコからビーカーへ移された。眠り続ける体はひんやりとしてまるで氷のようだ。今までよりも重く感じるのは、その体が自分の意志で動こうとしないからなのだろう。蛇口をひねり、フラスコを濯ぐ。取り出し損ねたビー玉が水に押され、フラスコの底をコロコロと転がった。
「……なあ、サエ」
 中性洗剤をスポンジに垂らしながら、夏生は静かに語りかけた。
「お前は結局、寂しいのかどうかって質問に答えてくれなかったな」
 問いかけたところで眠っているサエに届いているとは夏生も思っていない。そもそもこれは本当に睡眠なのかすら怪しいのだ。呼吸している様子のないそれは模型や瓶詰めの標本を思わせた。だがサエの言うことが本当ならば、いつかその目を開けるのだろう。この家にやってきて二日目、冷蔵庫を開けた夏生の目の前で眠りから覚めた時のように。
「おれはおまえみたいに全知全能じゃないからな。やっぱり、おまえが何なのかさっぱり分からないし、正直、こうなったおまえをどうすれば良いのかも分からない」
 フラスコを逆さにしてビー玉を取り出し、洗面器の中に転がした。ビー玉は最後に洗うことにして、フラスコの中にスポンジを入れ、内側を隅から隅まで擦る。フラスコの中はあっという間に白い泡に埋め尽くされた。
「おまえの口ぶりからして、多分、祖父さんはおまえが怖くなったんだろうな。おれにもなんとなく、そうした気分は分かるよ。だからおれも、祖父さんのようにするべきなのかもしれない。でもさ、考えてもみろよ」
 作業している間に、うっかりレバーを変えてしまったらしい。蛇口をひねると頭上のシャワーノズルから水がざあざあ降ってきた。驚きに動作が止まっている間にも水は容赦なく夏生の体を濡らしていった。慌ててレバーを変える。服が、髪の毛が、肌に遠慮無く張り付いてくるのが鬱陶しい。だが草むしりで火照った体が冷えていく感覚は心地良かった。
「なんで祖父さんはおまえをわざわざ冷蔵庫に入れたんだろうな。だって祖父さんは老い先短かったんだろう。死んだら誰かが自分の家を片付けに来るって知ってたはずだ。書斎には誰にも入るなって言ってたけど、祖父さんが死んだら必ず誰かが入らなきゃいけなくなる。その冷蔵庫におまえは入れられていたんだ、交換用の液体と一緒にさ」
 今度こそフラスコの中を洗浄する。
「なあ、サエ。祖父さんはおまえが誰かに見つかるように、世話が出来るように、用意をしていたんじゃないのか。一度はおまえと出会ったことを喜んだ、祖父さんが」
 綺麗に洗ったフラスコの次に、洗面器を自分の横まで引っ張った。転がったビー玉同士がぶつかり澄んだ音を立てるのが無性に懐かしい気がした。垂れてきた前髪を払いのけ、手に洗剤を押し出し泡立て、ビー玉を一つ一つ優しく洗う。
 あっという間に洗い終わったビー玉は、変わらず透き通っていた。
「そうして誰かがおまえを見つけてくれることを、望んでいたんじゃないのか」
 ビーカーからつまみ出した小さな体を手のひらに載せた。力を込めて握りしめれば呆気なくつぶれてしまいそうな体だった。
「寂しくないのかって、お前は答えてくれなかったけど。少なくとも、おまえが一人になることを悲しむ人はいるんだよ」
 夏生はその体をジャム瓶の中にそっと入れた。底に沈まず、かといって水面に浮かぶ訳でもない。金属製の蓋を閉める前にビー玉を一緒に入れた。一つ入れる度に水かさが増し、すべて入れ終わると中身が少しだけ零れた。それをタオルで拭い、今度こそ蓋を閉める。
 ジャム瓶は小さな水槽のように水で満たされ、ビー玉の色鮮やかさと浮いたサエの体が妙に幻想的だった。ふ、と小さく笑う。標本のようなその様子に、それでもやはり夏生は恐怖を抱くことはなかった。
「お望み通り、放っておくよ、おれの部屋に。それくらい良いだろう。綺麗な花が咲く庭は無いけど、多分祖父さんの書斎よりかは冷房が効いてると思う。暖房もな」
 瓶詰めにされた小さな小さなその人は音もなく眠り続けている。


 残っていた壁掛け時計を外す。
 電池を抜けば、三時寸前を指して時計は止まった。それを段ボールの中に詰め、夏生は自分の荷物を持って家を出た。古びた鍵で施錠すれば、朽ちていくだけの家には誰も残らない。
 左手に提げた紙袋から、ちゃぷん、と水音がした。
「……金平糖、新しく準備しないとな」
 ポケットの中を探ると、いつの間に入れていたのか、飴玉が一つ転がり出た。イチゴ味だという赤い飴玉を取り出し、味わう前に口の中で二つに割る。べたべたと舌の上を蹂躙するそれはやはり、夏生の口には合わない。
 次はイチゴ味以外の、もっとさっぱりした飴をおやつに準備しておこう、と夏生は思った。
 紙袋の中のジャム瓶からは、寝息の代わりにビー玉のぶつかり合う音が聞こえた。

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