蝶子が十歳の時、蓮は姉ではないと知った。
 蓮は二十歳を過ぎたくらいの女性だった。すらりとした長身で、黒い大きな犬(名前はあるらしいが蓮はついぞ教えてくれなかった)と、遥という男と蝶子の、三人と一匹と暮らしていた。
 蝶子に両親はいない。物心ついた頃からいなかった。最初は育ててくれている蓮が母親だと思っていたが、それは違う、と蓮は早々に否定した。そういうには確かに二人の年齢は近すぎたのだ。故に周囲の人々からは歳の離れた姉だとよく言われたが、やはり蓮はそれは違うと言った。
「私とあなたは血はつながっていますが、半分だけです」
 それはどういうことなのか、いつも蝶子は詳しく聞こうと問い詰めたが、蓮は何も教えてくれなかった。ふいと視線を蝶子から外し、窓の外を見ていた。それでもなおしつこく迫ると、二人のやりとりを聞いていたらしい黒い犬がくい、と蝶子の服の裾を食んで引き、遥は何でもなかったかのように蓮の手を引き買い物に行ってしまった。
 ではどういうことなのか、蝶子は分からないままモヤモヤした。犬は賢そうな目を瞬かせ、蝶子の頬をぺろりと舐めた。母親でも姉でもないが血の繋がっているという蓮は、蝶子を甘やかすわけでも厳しくするわけでもなかった。食事を作り、掃除と洗濯をして、帰ってきた蝶子が学校であったことを話すのに耳を傾ける。宿題をしていれば近くのソファーで本を読み、遊びに行けばいってらっしゃい、の一言で送り出した。だがやはり母親でも姉でもないのだ。そこには温かな抱擁も愛情故の叱責もなかった。二人の間にある微妙な距離は、よく分からない血の繋がりのせいなのかもしれない、と漠然と思った。
 世の中には聞いてはいけないことがあるのだと十歳の蝶子は学んだ。


 蝶子が十五歳の時、蓮が魔女だと知った。
 蝶子の身長が伸び体が丸みを帯び少女から女になっていく過程で、蓮は二十歳を過ぎたくらいの外見から変わることはなかった。いよいよ蝶子と蓮は姉妹と勘違いされることが多くなった。
 蓮は態度も何も変わらなかった。思春期に入り情緒不安定な蝶子へ必要以上に近寄ろうとはせず、それが逆に蝶子を怒らせることもあった。だが蓮は淡々としていた。罵倒しようが殴ろうが無表情に蝶子を見ていて、それが冷静になった蝶子に罪悪感を抱かせた。
「私は魔女なんです。だから歳をとらない」
 唐突にそう言い出したとき、驚きも何もしなかったのは薄々そう感じ取っていたからかもしれない。夕食を食べ終え受験勉強をしている蝶子に蓮はそう言った。犬も遥もいつも通りで、蓮がそうだということを知っていたと言わんばかりの態度だった。
「知らなかったのはわたしだけなの?」
「ええ」
「どうして教えてくれなかったの」
「言うタイミングが見つからなかっただけです」
 本当にそれだけだった。蝶子もそれ以上何かを聞き出そうとはしなかった。それは聞いてはいけないことなのだと悟っていたからかもしれない。そして言わないということは、知る必要がない、ということなのだともなんとなく感じ取っていた。
「魔女なのね」
「ええ」
「箒で空を飛ぶの?」
「そんな非効率的なことはしたくありません」
 やはり蓮は詳しくは教えてくれなかったが、いつか本当に知らなければならない時がくれば教えてくれるのだろうと蝶子には分かった。
 世の中には知る必要のないことがある、と十五歳の蝶子は学んだ。


 蝶子が二十歳の時、蓮に恋人を紹介した。
 相変わらず歳をとらない蓮は蝶子が成人しても態度も何も変わらず、やはり蓮のままだった。歳の近い姉妹に見られるようになったが、それでも蓮はかたくなにそれは違うと言い張った。半分血の繋がっただけの、他人のようなものだ、とも言った。十年前の蝶子が聞けば衝撃を受けたかもしれない他人、と言う言葉は、しかし成人を迎えた蝶子には納得できる響きでもって届いた。なるほど、血が繋がっていても他人は他人なのだ、と思った。
 そんな彼女を驚かせてやろうと、何の前触れもなく恋人を家に連れていった。背が高く優しい顔立ちの青年を目の前に、蓮は驚いたような顔で沈黙し、青年の顔と蝶子の顔を交互に見て、そしてため息をついた。
「こういうのは先に連絡をしておいてください。晩ご飯の材料が足りなくなるでしょう」
 暇そうにしていた黒い犬と、おもしろいことが起きそうだとわくわくしていた遥を買い物に行かせ、蓮は青年と挨拶を交わした。どうも、初めまして、蓮です。蝶子さんの、まあ、保護者みたいなもんです、と、ものすごく微妙な顔で淡々と話した。青年は優しげな顔を少しだけ緊張させながら、初めまして、蝶子さんとおつきあいさせてもらってます、と言った。
 青年は蓮の作った夕食を、蝶子と蓮と遥と黒い犬と一緒に食べ、食器を遥と並んで洗い、ごちそうさまでした、と言って帰っていった。
「あの人と君はどこか似ているね」
 蝶子と蓮の関係の複雑さを少しだけ聞いた彼はそれだけ言った。それじゃあまた明日、とどちらからとなくキスをして、彼はくるりと背を向け去っていった。触れ合った唇から熱が全身に広がっていき、顔を真っ赤にした蝶子を二人と一匹はからかった。
 誰かを好きになることを、二十歳の蝶子は学んだ。


 蝶子が二十五歳の時、蓮が初めて涙を見せた。
 五年の付き合いを経てあの優しい顔立ちの青年と結婚式を挙げた。蝶子の家族として出席した蓮は、家族や姉妹と言うよりも一人の友人に近かった。蓮の態度は十歳の時からほとんど変わっていなかったが、同じくらいの歳になれば蝶子の方が態度が変わり、それは友人に話しかけるような、そんな気軽さになった。蓮は何も言わず蝶子の変化を受け入れた。
 結婚式はごくごくふつうに行われた。教会で行われた式で、蝶子はあこがれだった白いウエディングドレスを来て、夫となる青年と誓いのキスを交わした。視界の隅では蓮は無表情で座っていて、黒い犬はおとなしくその横に並び、遥は退屈そうに欠伸をしていた。
「どう、きれいなドレスでしょう」
「ええ、素敵ですね」
 蓮が涙を流したのはそのときだった。何の前触れもなく、庭で二人並んで話していた。素敵ですね、の、ね、が発音された直後、蓮のうっすら化粧された頬を滴が滑り落ちた。何より驚いていたのは蝶子だった。蓮は呆然と、流れる涙を拭った指先を見ていた。黒い犬は心配そうに周りをうろつき、遥は慌てたようだったがすぐに冷静になり、蓮の頬をハンカチでぬぐってやっていた。
「どうしたの、蓮、いきなり泣くなんて」
 思わずその頬にふれようと伸ばした手は、蓮が身を引いたことで叶うことはなかった。手袋が汚れるでしょう、と、いつもの調子で言った。
「ええ、あなたはこんなになって、それで結婚して、子供を産むんでしょうね」
「そう、そうよ、わたし、結婚したんだから」
「幸せですか」
「幸せよ」
「子供、産んだら」
 今度こそ愛してあげてくださいね。蓮はただ、それだけを言った。ちょうどそのタイミングで蓮と蝶子二人に声がかけられ、その言葉の意味を聞くことは出来なかった。
 だがきっと、今、この時に聞いても、彼女はその言葉の真意を教えてはくれないと、薄々気付いてはいた。世の中には聞いてはいけないこともあるし、知らなくてもいいこともある。人の愛し方を知ってしまった蝶子は、蓮の言葉の意味を知ってしまったら元に戻れない、そんな恐怖があった。
 だから聞かなかったことにした。今度こそ愛してあげてくださいね。響いた蓮の言葉を封じ込め、何もなかったことにする。新郎に呼ばれて振り向いた。明日からは彼と共に残りの人生を歩んでいく。
 知らないふりをすることを、二十五歳の蝶子は学んだ。


 蝶子が三十歳の時、蓮に娘を見せた。
 娘は三歳だった。夫の都合で遠いところにいた蝶子は久しぶりに蓮達の住む家を訪れた。やはり歳をとらない蓮は、もう姉妹の姉ではない。
 黒い犬のしっぽをつかみきゃっきゃと笑う娘を、蓮は遠いところから見ていた。抱きしめることも、頭を撫でることもしなかった。犬がぺろりと娘の頬を舐めた。甲高い声で笑う子供は無邪気にママ、と舌っ足らずに蝶子の元へやってきた。蝶子のそばにいた蓮が後ずさりして距離をとるのを、蝶子は呆れた目で見た。
「まさかあなた、子供が怖いの?」
「いいえ、そういうわけでは」
 娘は次に、我関せずとソファーに座っていた遥にねらいを定めた。彼の足に勢いよく抱きつくと、遥はうおっ、と情けない声を上げた。とても珍しいことだったので蝶子が笑うと、蓮も少しだけ笑ったようだった。
「娘のこと、大事にしていますか」
「もちろん」
「そう、ならよかった」
 それが聞きたかったのだと言わんばかりに、蓮が安堵のため息をついた。そして、遥にじゃれつく娘に近寄りその頭をするりと撫でた。娘は突然の触れ合いに、きょとん、と目を瞬かせた。
「よかったね、君は。そのままでいられるといいね」
 蓮はぽつりと呟いた。
「私は母親に、愛されたことはないので」
 それだけだった。言葉の意味を理解していない娘はただただ不思議そうな目をするだけだった。少しだけ似た顔立ちをした、三歳の娘と二十歳を過ぎたくらいの女を、蝶子はただ呆然と眺めていた。
 蓮の過去のほんの一部を、三十歳の蝶子は知った。


 蝶子が四十歳の時、蓮が突然蝶子達の家を訪れた。
 昼下がりのことだった。夫は仕事、娘は学校で、蝶子だけが家にいた。それをねらったかのように、二十歳を過ぎたくらいの蓮はやってきた。後ろには黒い犬と遥がいた。
「私はこれからいなくなります」
 あの家や持っていた土地はあなたに譲ります。そういって書類のたぐいを手にやってきた彼女は、もしかしたら蝶子と並べば親子に見られたかもしれない。外見の歳が逆転して十年以上経った二人の間には、もはや昔のような空気はない。もしかしたら蝶子は、蓮のことをおそれていたのかもしれない。自分が年老いていく一方で、いつまでも老いることなく黒い犬と男を従える魔女を。
 蝶子は事務的にそれに応じた。話はあっと言う間に終わり、蓮は何も言わずに立ち去った。玄関まで送ろう、と思った蝶子は、しかし、体を動かすことが出来なかった。
 ただ、蓮は一度だけ振り返って蝶子を見た。冷たい目をしていた。心の底から蝶子を憎んでいるような、そしてそれを何かで押さえつけているような、ひどく冷たい目だった。
 十年前、ぽつりと蓮が呟いた言葉が頭の中で響いた。私は、母親に愛されたことがないので。そしてさらに五年さかのぼる。今度こそ愛してくださいね。またさかのぼる。保護者みたいなもんです。さかのぼる。私は魔女です。そして十歳の時、
(それは違う)
 姉でも、親でもない。血の繋がりは半分。
 そうして蝶子は育ての親を失った。


 蝶子が五十歳の時、蓮は姿を見せなかった。
 蝶子が六十歳の時、蓮は姿を見せなかった。
 蝶子が七十歳の時、蓮は姿を見せなかった。
 蝶子が八十歳の時、蓮は姿を見せなかった。
 蝶子が八十九歳の時、蓮は姿を見せた。


 年老いた蝶子へ、蓮は昔のような無表情で会いに来た。あなたに会いに来たんです、と言った。二十歳を少し過ぎたくらいの外見は変わらず、後ろに黒い犬と遥はいない。だって院内に動物を入れるのはだめでしょう、遥はついでに外で待っています。淡々とした言葉だった。
 祖母と孫ほど歳の離れた二人を怪しい目で見る者はいなかった。病院に見舞いにくる娘とその婿、夫は、今日は来ないという話をしていた。ちょうど良いと言えばちょうど良い日だ。何か、花束や食べ物を持ってくるわけでもない、蓮は本当にふらりとやってきた。だがそれでよかったのかもしれない。つい昨日やってきた孫がくれた花は生き生きと咲いていたし、そもそも蝶子はもう、何も食べられない。
 日に日に死へと近づく蝶子へ、蓮が向けた眼差しは四十歳の時のあの冷たい目でもなんでもなかった。昔そうだったように、椅子に腰掛けた魔女は言う。
「昔話をしましょう」
 かつての自分が思っていた、知ることを知る時がきたのだと、ベッドに横たわりながら蝶子は思った。
「昔々、まあ、百年近く前のことですが、一人の魔女が子供を産みました」
「魔女は子供を捨てました。いろんな事情があったみたいですが私には知ったこっちゃありません。とにかく子供は捨てられました」
「子供は拾われ生き延びて、紆余曲折あって魔女として育ちました」
「魔女になった子供は親を知りませんでした」
「だから、母親の魔女に会ったとき、本当にびっくりしました」
「母親の魔女は、呪いをかけられ子供に戻ってしまっていたからです」
「しかも、自分が魔女であった記憶も、子供を産んで捨てた記憶も、何もかも無くして」
「途方に暮れた子供の魔女は、それでも母親の魔女であった子供を捨てられなくて、仕方なく育て始めました」
「気付いたらそれから七十年以上経っていて、母親の魔女であった子供は年老いて、子供の魔女の目の前で死んでいく途中でした」
「結局この数十年間、私は何をしたかったんだろう。今更母親が自分を愛してくれるわけでもないのに。そもそも生まれた瞬間に自分を捨てるような魔女なのに。住んでいた家を捨て、世界中を放浪し、気付けば何かをするわけでもなく、子供の魔女は年老いた、母親の魔女であり子供であった老婆を見つめています」
「ほんとうに、私は、何をしてほしかったんだろう」
「おしまい」
 つまらない話でしょう、と蓮は言った。つまらなくなんかないわ、と言おうとしたが、声は出なかった。蓮は温度のない一瞥を蝶子に投げかける。かつての冷たい、蝶子を憎むような目とは違う、様々な物を飲みこみ押し込んだ目だった。
「あなたの産んだあの子は、元気ですか」
 小さく頷く。
「あなたはあの子を、ちゃんと愛してくれましたか」
 小さく頷く。
「私はあなたの娘です」
 小さく頷く。
「あなたは魔女でした」
 小さく頷く。
「私はあなたの血を半分だけ、もらっているんです」
 言葉を区切った蓮は、相変わらず無表情だった。泣くのではないか、と思ったが、泣くことはなかった。ただ大きく息を吐き、立ち上がる。それで終わりだった。
 話は終わってしまったのだ。彼女はただ話すべきことを話すべき時に話しただけだ。そうして知るべきことを知った蝶子は何か出来るわけでもなくゆっくりと死んでいく。何をしたかったのか自分でも分からないと言う蓮は、ただそれを伝えただけで蝶子へ何も求めなかった。それ以上のことはきっと、端から期待していなかったのだ。
 ただ、年老いた蝶子が感じ取ったのは、過去に見せた蝶子を憎むような冷たい目は、娘として愛されることのなかった彼女がたった一度だけ見せた本音だったのかもしれないということだ。
 呼吸器の下で蝶子はほほえんだ。
「蓮」
 蚊の鳴くような、小さな声だった。ドアに向かっていた蓮が足を止める。振り向いた彼女が泣いているように見えたのは、老いた目が彼女を歪んで映しただけだったのかもしれない。
「ありがとう」
 そして彼女が今まで見たことのない美しいほほえみを浮かべたように見えたのも、ただの見間違いだったのかもしれない。
 蓮はひらりと手を振り、背を向け歩き出す。
「さようなら、おかあさん」
 そうして、魔女はいなくなったことを、八十九歳の蝶子は知る。




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