紺色のピーコートを着て道に立ち尽くしていた。途方に暮れた私の手にあるのは、もう使いようのない家の鍵だけで、スカートから出た膝がとても冷たかった。冬の空気は私の肌を刺す。痛いと涙が出るけれど、それよりもどうしよう、という思いの方が強くて、結局私は泣かなかった。
 どうしよう、と夕暮れを過ぎてピーコートと同じ色の空を見つめる。どうしよう、私は一人になってしまった。




「わたしは実は、魔法使いなのだ、よ」
 相変わらずどこか舌っ足らずな調子で、彼はふうふうと熱いティーカップの中身を吹き冷ましながら私に言った。年の割に話し方がこんななのは、実は数時間前に熱い缶ココアを飲んで舌を火傷したからである。それを見た私は思わず大笑いしたのだが、彼はいまだに根に持っているらしく、ここ数時間は少し不機嫌気味だった。
 そんな男は魔法使いなのだという。黒いコートを着た、この人は。
「まほうつかい」
「まほうつかい」
「うそだあ」
「なにを根拠に、うそだと言うのだね」
「それっぽくない」
「ひとを、見た目で判断しては、いけない。道端、で寝転がっている人が賢者の可能性も、なきにしもあらず、だ」
 全国チェーンのコーヒーショップの一番奥、薄暗い照明とコーヒーのにおい、私は目の前の温められたスコーンを崩す。ぽろぽろのスコーンはフォークで刺すたびにかけらになって、結局私の口にはあまり入ってくれない。
「魔法使えるのね」
「まほうつかい、だからな」
「だから逃げてるの」
「そうかもしれない」
「あいまいね」
「秘密、だからだ」
「魔法も?」
「魔法も」
「秘密ばっかり」
 私はこの人の名前を知らない。歳を知らない。どこから来たのか知らない。何も知らない。何を聞いても秘密、というからだ。ただ、彼は逃げている、とだけ教えてくれた。あとは彼の行動から推し量る。寒がり。温かい飲み物をよく飲む。甘いものが特に好き。一週間のうち、ココアを飲んだ回数は22回。コーヒーは0回。今飲み終わったのはミルクティー、これは3回目。寒がりのくせに私にマフラーを貸しているものだから、しょっちゅう首元を擦っている。少しだけ申し訳ない。おしゃれなトランクを持っていて、その中からは何でも出てくる。この一週間、私は彼がそのトランクからコートだったり財布だったりマフラーだったり瓶だったり、いろんな物を取り出すのを見ていた。
 一週間。私がこの男と過ごしている時間はまだ、たった七日だ。
 ぼー、としていると、魔法使いがひょい、とスコーンのかけらを勝手にとって食べてしまった。私のスコーン、とつぶやけば、ごちそうさま、と返ってくる。お行儀が悪いよ、と言えば、大人なんてそんなものさ、とどこ吹く風で彼は言った。
「大人って変だ」
「どうして」
「だって、人には良い子でいなさいって言うくせに。お行儀悪くしたら怒るのに、自分はそんなことをしても良いのね」
「残念なことに、わたし、は行儀の悪い、おとななんだ」
 にやり、まるで悪人のように魔法使いは笑う。良い魔法使いと悪い魔法使いがいたら、この人はどちらなんだろうか。シンデレラをパーティーに連れて行ってくれた魔法使いか、それとも兄妹を食べてしまおうとした魔法使いか。
 私がそんなことを考えているのをつゆ知らず、魔法使いはとても微妙な顔をしていた。舌の火傷が痛んだのだろうか。どうしたの、と口を開いたタイミングで、魔法使いはもう一度、私のスコーンを摘んでしまった。あっと声を上げるより先に、彼の指はそれを私の口に放り込む。突然入ってきたスコーンに目を丸くしていると、魔法使いは慌ただしげに立ち上がってトランクを持ち上げた。
「さてお嬢さん、ティータイムは、中断だ」
 チョコレート色のトランクを開けた魔法使いは、そこから鍵束を取り出した。スコーンをようやっと飲み込んだ私は同じように立ち上がって、急いでコートを着直してマフラーを巻く。それを待っていた魔法使いは、私の準備が終わると手をひいてテーブルの間をすいすい抜けていった。
 早足で通り抜ける私たちを不審な目で見る人がいなかったのは、きっと客が多いからだろう。でもその中で、何人かと目が合った。それが少しだけ怖くて私は魔法使いの手をぎゅ、と握る。魔法使いは何も言わず、掴む手に力をこめた。
 店を出た魔法使いは早足のまま、どんどん先に進んでいった。もう夜だ。ピーコートと同じ色の空が迫ってくる。
「どうしたの、どこにいくの」
「人が追ってきている。行き先は」
 ちら、と振り向いたけれど、私には誰が追ってきているのかは分からなかった。けど多分、魔法使いには見えていたんだろう。難しそうな顔をした。
 言葉を句切った魔法使いは、少しだけ黙ってまた続ける。
「行き先は、未定」
「未定」
「どこに行きたい」
「どこに。どこに?」
「どこに」
「分かんない」
「きみの家、以外ならどこにでも」
 角を曲がる。家に帰るんだろうか、サラリーマンとぶつかりそうになって少し足がもつれた。
 帰る家のない私はもう一度後ろを振り返った。
「暖かいところ」
「南、か」
「だめ?」
「だめ、じゃない。むしろ良い。そうしよう」
 にっこり笑って魔法使いは言った。いつの間にか、目の前には扉があった。街中の音がまるで、硝子の向こう側の音のように聞こえた。ばたばた、誰かが走ってくる。
 魔法使いは唇に人差し指を当てて、それから鍵束の中の鍵を一つ手にとって、扉に差し込んだ。かちり、音がした。鍵が開いたのだ。
 軋み声を上げたドアの向こう側に見えたのは、真っ赤な空だ。夜明けだろうか、夕暮れだろうか。とても綺麗な赤色と、揺れる地面。いいやこれは地面じゃない。水面だ。水面に赤い空が映ってどこもかしこも真っ赤で、私はびっくりした。
「少し歩く、が、仕方ない」
 それじゃあ行こう、と魔法使いは私の手をとって、向こう側に一歩踏み出した。私もおっかなびっくり水面に足をつけたところで、後ろから声が聞こえた。待て、誘拐犯。既に両足で水面に立っている魔法使いはむう、と小さく唸って後ろを振り向く。私も振り向くと、紺色の制服の人達と、黒いスーツの見るからに怪しげな人達がこちらに向かってきていた。
「誘拐、ではないんだが」
 ねえ、と魔法使いは私に首を傾げて見せた。でもそんな声が追い掛けてきた人達に届くわけもなく、怖い顔をした男の人達がどんどん近付いてくる。
 追いつくまでもうちょっと、といったところで、魔法使いはえい、と声を上げて扉を閉めた。ばたん。閉じた扉はすう、と足下から透明になっていって、とうとう最初からそこになかったように消えてしまった。私たちがいた街並はもう、どこにもない。
「まほう?」
「魔法、だ」
「秘密?」
「秘密、だ」
「言っちゃったら解けちゃうの」
 12時を過ぎたシンデレラのように。
「そんなちゃちな魔法と、一緒にしないでくれたまえ」
 不機嫌そうな声で、けれど胸を張って、魔法使いは言う。
「じゃあ、12時になっても解けない?」
「解けない」
「ずっと?」
「ずっと」
 ああけれど、とトランクを持ち直し、鍵束をコートに突っ込んで、魔法使いは体を屈めて私の顔を覗き込んだ。
「手を、離さないように」
「うん」
「離したら、沈んでしまうから」
「じゃあ、ずっと握ってる」
 握り直した魔法使いの手はひんやりしていた。寒がりの手だ。でもここは暖かい。コートはすぐに、いらなくなるだろう。マフラーに口元を埋めると、魔法使いが22回飲んだココアの甘い香りがした。
「そういえば、ティータイムの途中、だった」
「そう、スコーン。まだ食べ終わってなかったのに」
「じゃあ、着いたら、改めて」
 子供は食べ盛りだからな、と言ったので、今度はココアも飲みたい、と私は言った。魔法使いは私の手をぎゅ、と握って、それからもう一度にっこり笑った。この人は良い魔法使いなのだろうか、悪い魔法使いなのだろうか。答えはもう、決まっていた。
 魔法使いの手に引かれて、私は赤い水面を歩いていく。



 一人になった私はもう誰にも頼れなくて、空っぽの手から鍵が滑り落ちたのにも気付かなかった。なんだかもうよく分からなかった。何をすれば良いんだろう。何を考えれば良いんだろう。こうなってしまった原因をどうにかしようにも、私を捨てた親を憎むには、私はあまりに従順すぎた。
 だから一つだけ。泣くことはないまま、冷たい両手を握りしめて神様に祈った。
 神様お願いします、私を助けて下さい。あのシンデレラのように。カボチャを馬車に、綺麗なドレスと綺麗な靴を与えてくれる魔法使いを、私に。

「こんばんは、お嬢さん」



 だから、あの時来てくれた黒いコートとチョコレート色のトランクと、ココアの香りのこの人は、きっと私の魔法使いなのだ。




ねーC、親に捨てられた優等生と身に覚えのない罪で逃亡してる人物とのファンタジー書いてー。
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