振り返れども、振り返れども、後ろにあるのは線路と散らばった星々の光だけだった。

「後悔していらっしゃるのですか」
 コンパートメントの中、向かい合って座っている男が問う。僕はそれに答えようと口を開き、しかしすぐに閉じた。男が微笑んでいたからだ。それはそれはうつくしい容貌を持った男は憂いの影をその目に落とし、微かに持ち上げた唇の端にはえもいわれぬ色香が漂っている。何のてらいもなく綺麗だ、と僕はよく思う。男の姿は芸術品のようだ。だがその微笑みにいくらかの悲しみが入り交じっていることを僕は知っていた。
「どうだろう、分からない」
 素直に答えれば、男は一層悲しげに微笑むのだ。
 星と星の間を繋ぐ鉄道は、果てに向かうにつれて人が少なくなっていく。一人、また一人と減っていく列車の中、気がつけば人のいるコンパートメントは僕と彼のここしか無かった。
 星間鉄道の車内はいつでも薄暗い。温かな色合いのライトだけでは、宇宙の暗がりを照らすには心許ないからだ。窓の外で煌めく星々のような輝きは、列車にはない。乗客が減っていく車内はよりいっそう暗くなっていくようだ。
 がたたん。
 誰も通らない通路から目を逸らし、窓の外をひたすら眺めれば、どこまでも続く真っ暗な中に大小様々な星が散らばっている。その間を結ぶ線路はあまりに細すぎて僕の目には映らない。この線路も列車も、他から見れば誰の目にも映らない物なのだろう。それで良いのだと僕は思う。星だってそうなのだから。
 目の前で男が身じろぎした。彼の肩から滑り落ちた淡い色の髪の毛が、薄暗い照明の中でもきらきら輝いていた。けれど目にかかった僕の髪の毛は、外と同じように真っ黒い。生まれた星が違えば外見が違うのは当然のことだ。それにもまして、僕はこのうつくしい男とは真逆の存在なのだけれど。
「でも、帰りたいとは思いませんか」
 なおも言葉を返した男に、かける言葉を探す。果てまで行くこの列車を降り、もといた星に戻りたくはないのかと、男は僕に問いかけるのだ。それはきっと、男の目指す果てという場所が本当は、存在しないからだろう。いや、存在するにはしているのだ。事実この列車はあと187時間後に終着駅に到着し、僕達を吐き出す。
 けれど男が言う果ては終着駅ではない。
 結局僕は言うべき言葉が見つからず、ただ静かに首を横に振った。男は相変わらず、悲しげな微笑みを浮かべていた。


 コンパートメントで向かい合う男が膝で広げているのは、黒い、絵本のような厚みの板を二枚繋げ合わせて開いた物だ。開いた内側は、片方にはたくさんのボタンが所狭しと並んでいて、もう片方にはガラスか何かがはまっている。男はボタンが付いた方を自分の膝に載せて操作するが、彼がボタンを押すたびに、ガラスがはまった方はきらきらと光った。
 男のそれは、音楽を再生するものらしい。再生するだけではなく、自分で音楽を弾くことも出来るという。見た限りではレコードの一枚も入らなさそうな大きさだというのに、どういう訳かその板からは音楽が聞こえる。それもヴァイオリンの旋律が流れたと思えばコントラバスの重低音が響き、ティンパニの迫力に満ちた音が重なる。まるで中にオーケストラがまるまる入っているようだ。
 それに合わせて男は歌う。遙か遠くの星からやってきて、そしてまたどこかに去っていく。彼は旅人であり、唄歌いだと言う。
 今も男がボタンを押す度に聞いたこともない音が、音楽が流れる。男は真剣な表情で、かちかちとボタンを押していた。水のように澄んだ目はただひたすらに板に向いている。
「どうかしましたか」
 僕の視線に気付いたのか、男が不意に顔を上げた。穏やかに凪いだ湖を思わせる青色が僕に向く。一瞬息が詰まった。彼の目はほんとうに、宝石のように美しかった。
「なんでもないよ」
「ですが、何か物言いたげな目をしています」
 そうだろうかと暗い窓ガラスに映った影を見た。癖のない黒い髪が鬱陶しいほど伸びて目の前を遮っている。隙間からのぞく目は薄い灰色をしていて、遠目から見るとまるで光彩がないようだ、と言うのが人々の意見だ。灰色の目をした僕はまっすぐに、向かい合った僕自身を見ていた。
 鏡像は語らない。
「綺麗な瞳です」
 がたたん。列車は揺れる。
「灰色だ」
「ええ。素敵です」
「遠くから見ると怖いんだ」
「私は近くにおりますよ」
「でも近くに寄ると危ないから、みんな遠巻きに見てるんだ。だって殺しちゃう」
「そんなことはありません。ほら」
 彼は易々と僕の手を取ってほほえんだ。僕の黒ずんだ、鋭い爪が伸びた固い手は、すっぽりと彼の両手に覆われた。人の肌を裂く爪が彼の傷一つ無い細い手を傷つけないか、僕は内心ひやひやしていた。けれど彼はそんなことをいっさい気にせず、ぎゅ、と軽く力を込める。
 男の手は温かかった。誰かに触れることが無かった訳じゃない。僕と同じような子供達はたくさんいたし、彼らとは仲が良かったから、肩を叩くとか、腕を組むとか、そういうことは確かにしていた。けれど彼らは皆戦争で死んでしまったし、唯一生き残った僕は他の人々から星を追い出されてしまった。そうなると僕は一人だった。一人だと、自分以外に触れることはない。人の温かさなんてものはすぐに忘れてしまう。
「あなたの手は温かい。それに、瞳はとても綺麗です」
 人と争うことのない唄歌いは、争うことしか知らなかった僕の手を、何のためらいもなく包み込んでそっと撫でる。ライトの下、男の白い肌がよりいっそう白さを増しているようにも見えた。


 187時間はあっという間だった。みるみるうちに近付いていく終着駅は、きっと寂しいところだろう。男は広げていた機械を二つ折りに畳んで鞄にしまった。僕も自分の荷物を整える。
 男は立ち上がると僕の手を取ってコンパートメントを出た。手が塞がっていたら護衛も何も出来ないと訴えると、彼は振り返ってにっこり笑っただけだった。そうなるともう、僕は何もいえなくなる。黙って彼に引かれながら降り口に向かう。
 そうして降り立った久しぶりの地面は乾ききり、一面が荒涼としていた。
 星間鉄道はこれ以上先に進まない。ここが果てだと人々は言う。けれどそれは嘘でしょう、と男は静かに否定した。鉄道がそこで止まっただけで、本当の果てはもっともっと遠いでしょう。もしかしたらないのかもしれません。それでも男は終着駅に行こうと、果てに行こうとした。拾われた僕は、彼の歌を聴きながらその後ろをついてきた。
「これではまだ、戻ることが出来てしまいますね」
 男は静かな声で言う。
 振り返れども、振り返れども、後ろにあるのは線路と散らばった星々の光だけだった。
「じゃあ、歩いていこう」
「そうですね」
 もう二度と戻ることの出来ない場所までたどり着きたいのだと彼は言う。線路をたどってしまえばきっとたどり着けるような場所に、彼の本当の望みはない。だから彼は線路を振り返らない。星の小さな光すら見えなくなるような果てを彼は目指す。僕は一度だけ振り向いて、また彼の背中を追う。
 彼の言う果てが本当は存在しないことを、けれど同時に存在していることを、僕はあいまいながら理解していた。だからこそ彼は悲しみを瞳に映しているのだろう。そこにはきっと、一人しか行けない。どれだけ彼の後ろを追いかけようと彼の目指す果てには僕は一緒に行くことが出来ない。それは僕も同じだ。僕もいつか、彼の言う果てに一人で行くことになる。もしかしたら、彼を置いて。
 187時間前の彼の問いが聞こえた気がした。後悔していらっしゃるのですか。元の星を捨て、果てを目指す彼についてきたことを。分からない。いまだ僕は彼の問いに答えることが出来ない。
 けれど、振り返るだけで後ろに一歩踏みだそうとは思わない。僕はただ彼の後ろをついていく。
「でも、少し寂しい」
「それなら一緒に歌いましょうか」
 手を繋いだまま軽い調子で告げて、一呼吸おいた彼はふわりと歌う。聞いたことのある旋律は、確か、僕の故郷の星のうた。ここから遙か離れた戦争の星。枯れた地面に乾いた空気に真っ暗な空に、吸い込まれるように彼の歌声は響く。
 僕はそっと手を握り返す。爪が彼の肌を切り裂かないように、ほんとうに、そっと。そうして彼にあわせて歌うのだ。ただ一人で星を巡り、この宇宙にあるはずのない果てを目指す、寂しい唄歌いの横に並んで。小さな小さな声で。

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