僕はどこまでも愚かな人間でした。思うだけ思って行動せず、あとになってそれを深く悔いるのです。そんなことばかりでした。
愚かな僕の一番の後悔は、妹のことでしょう。妹のことのなにがもっとも僕の心に深く刻まれているのか、それを問われれば僕は答えに詰まるでしょう。あまりに多くのことが突き刺さり、今なお夢にまで見るほど強く記憶に焼き付いているのです。それほどまでに僕の中で彼女の存在は大きく、また、大切なものでした。
妹は美しい人でした。雨を愛していたのは彼女が雨の日に生まれたからかもしれません。長い雨の夜、妹はよく窓際に座って雨が落ちてくるのを見ていました。一人で見るのは寂しいからと、いつも僕の手を引いて窓際に座っていました。僕は本を読むふりをしながら、美しい妹の横顔を盗み見ているのでした。
そう、僕の長きにわたる後悔の始まりは、血の繋がった妹を愛してしまった、それに尽きます。降る雨をこよなく愛する妹を、僕は知らず知らずのうちに愛しく思い、恋い焦がれるようになってしまったのです。
とはいえ、血の繋がったきょうだいを、どうして愛しているといえるでしょう。いいえ、もちろん家族として愛しているのならばまったく問題はないでしょう。ところがそうではなかったのです。彼女を一人の女性として、その髪の毛の一本指の先まで愛していました。見ず知らずの男に触れられることを嫌悪し、同時に自分のこの手でその柔らかな肌に触れたい、あわよくば汚したいという醜い欲求を持っていたことを僕は認めましょう。
幸か不幸か、僕は臆病者でした。ゆえに静かにその思いを心の中に隠し、せめて彼女のそばに少しでも長くいようとしました。兄として許される距離の限界まで近づき、そしてその横顔を、憂いに沈んだような美しいかんばせを見ていたのでした。
おそらくそれが許されたのは、妹も僕も静かであることを好いていたからでしょう。僕らの間に言葉はなく、必要ともしませんでした。言いたいことはお互いの目を見れば分かったのです。同じものを好む者同士の心の通い合いとでも言えばいいのでしょうか。僕らはお互いの存在を隣に置くことが出来たのでした。
そして変化を嫌っていました。季節が移りゆくことを悲しみ、雨が止むことを厭い、周りのなにもかもが変わっていくことを嫌悪していました。ゆえにあの、雨を眺めた窓辺は、いつも満ち足りた静寂に包まれていたのでした。
ところが僕が寄り添った世界は妹同様美しく、そしてそれゆえに壊れやすかったのです。変わらないものなどないということを思い知ったのはつぼみのほころび始める三月はじめのことでした。
その日の夕暮れ時に家を訪れたのは、父の取引先の人でした。父と母が連れ立って座敷に入っていきました。話はそう長くはかからなかったと思います。上機嫌な父が客を送り、戻ってきて僕に告げたのは、妹の嫁ぎ先が決まったということでした。


妹は縁談を動揺したふうもなく静かに受け入れました。それに父はますます気を良くしたようでした。もともとこの家は旧家と言われながら、傾きかけた太陽のごとく没落しかけていたのです。妹の縁談は妹の嫁入りと引き替えに資産の援助を受ける、そういう取引の一つの道具だったのでした。
僕の内心は荒れ狂う波のようでした。もちろんそうなることを予想していなかったとは言いません。ですがそれはもっと先になるであろうと、分かるはずのない先のことと、愚かにも高をくくっていたのです。そして考えていたよりも早くそれは現実になりました。妹が誰とも知らぬ男の物になってしまうことへの焦りと、今までなにもせずただその場に甘えていた僕自身への怒りばかりが頭の中を占め、それでいながらひどく冷静でした。
妹が嫁ぐのは梅雨が明けた七月に決まりました。父が縁談を急いだからです。六月に入り嫁入りの準備が慌ただしくなりました。周囲の慌ただしさとは無関係を装うかのように妹はいつも通りでした。僕もまた、その横で静かに浮き足立つ人々を眺めていました。
六月の雨の日々は妹にとってどんなものだったのでしょうか。毎日のように降る雨は僕にとっては歓迎すべきものでしたが、妹の内心はどうだったのでしょうか。僕はついぞ、それを知ることはできませんでした。雨が降る度彼女の横に並んで雨を眺め、時には本を読みながらそっと横顔を眺めました。妹は相変わらず静かでした。窓辺だけはなにも変わりませんでした。変わったのは妹のこれからと、僕の心のおそろしいほどまでの乱れ、それくらいでした。
そのころの僕は毎日、どうすれば妹の婚約を防げるのかということばかりを考えていました。しかしそれは不毛なことでした。行動に移すには僕はあまりにも小心でした。むしろこれは冷静を装うための、いわば自分の心を慰めるための思考と言っても過言ではないでしょう。僕はどこまでも、臆病で愚かな人間でした。
それでありながら平然といつも通りにふるまった僕は、おそらくいつもと変わらぬ、妹思いの兄だったのだと思います。


とはいえ、日が経つごとに僕の中の焦燥感は増してゆきました。表面は妹の嫁入りを祝福しながら、心の中でじりじりと焦がれていったのです。
その焦燥が生み出したのは殺意だったのでしょうか悪意だったのでしょうか、あるいはただの独占欲だったのでしょうか。手に入れられないと泣き叫ぶほど僕は子供ではなく、簡単に諦められるほど大人ではなかったのです。
雨がしとやかに降る夜のことでした。連日の雨に家の中の空気は濁り、乾いているはずの髪や肌もまるで湿っているようでした。
妹はやはり、自室の窓辺に座っていました。後ろから見たその姿はしなやかで細く、しかしながら一本の線が通ったように背筋が伸び、我が妹ながらまるで高貴な人物のように見えました。背中を流れる黒髪が艶やかに灯りを受けて輝いていました。
妹は僕が入ってきたことに気づきそっと顔を上げました。澄んだ黒い瞳が僕をとらえ、ほんの一瞬息が詰まりました。僕は何も言わず彼女の隣に座り、横に抱えていた本をひろげました。妹もいつものように顔を窓の外に向け、降る雨をひたすらに見つめていました。
そのときの僕の手は震えていたでしょう。自分がこれから何をしようとしているのか分かっていましたし恐怖もしていました。だというのに頭の中の一部分は奇妙に落ち着き払っていて、それは月夜の晩の、凪いだ海を思わせました。どうすれば震える手を抑えられるか、それを静かに考えられるほどに僕の一部分は澄んでいました。
しかしその一部分は僕のすべてを澄んだ水のごとくにするには遠く及ばず、せいぜい自らの行為におそれおののかせるほどにしか力はありませんでした。そうでなければ懐の中の刃などとうの昔に捨てていたでしょう。忍ばせた刃はひどく冷たく、僕の体温を奪っていくようでした。
雨は蜘蛛の糸のように細く、細く、空から落ちていました。
「お兄さま」
唐突に妹が口を開きました。雨を二人で眺めているとき、妹はいつも、僕をそう呼んでから話を始める癖がありました。僕は落ち着き払ったふりをして、なんだい、と答えました。妹は窓の外へ視線を向けながら、かすかに唇を震わせました。
「雨はいつ止むのでしょうか」
僕は内心驚いていました。妹がそう尋ねることなど、少なくとも僕の記憶の中では一度としてなかったからです。
「さあ、いつになるだろう」
ほんの少しの間をおいて僕は答えました。なんとも間の抜けた、曖昧な答え方でした。
妹はもう一度口を開きました。
「お兄さま」
「なんだい」
「お兄さまは、わたしが嫁いでおひとりになっても、このように雨を眺められますか」
僕は言葉に詰まりました。妹が嫁いだ後のことなどこれっぽっちも考えたことがなかったからです。いいえ、考えないようにしていたのでしょう。この期に及んでもまだ僕は、妹が嫁いでいくという事実から目を背けていたのですから。
はたして僕は、今までのように雨を眺められるのでしょうか。分かりませんでした。そもそも妹がいるからこそ眺めていたというのに、目的がなくなった後の手段がどうなることかなど、その時の僕には分からなかったのです。
雨がざあざあ降る音が聞こえました。懐の温くなった金属を思い出しました。途端呼吸が苦しくなりました。早くしなければ、と自分自身が頭の中で囁き、いややはりやってはいけないともう一人の自分がそれを制止しました。
恐ろしさがあっと言う間に僕の体に染み渡り、指の先さえぴくりとも動かなくなりました。今ここで妹にこの刃を突き刺したら、僕の愛する美しいむすめはもう二度と動かなくなるでしょう。こうして話すことも出来なければ、共に時を過ごすことも出来なくなるのです。今更じゃないか、と僕は内側で叫びました。おまえはそれを知っていて、この刃を持ってきたのだろう?
ならばやるべきだ。懐に手を入れて刃を握ってそのなだらかな胸に突きたてるのだ。美しい妹のことだから、流れる血の一滴まで綺麗なことだろう。ほうら、これで妹はどこにもいかない。お前だけのものだ。
手が震えました。湿った空気の中、口の中がおかしいほど乾いていました。呼吸を止めた妹の体を抱きしめる瞬間を想像し、歓喜を覚えましたが、それを打ち消すほどの寒気を覚えました。やってしまったらもう戻れないぞ、と僕の中の良心が囁きかけました。やってしまったら僕は一生、妹殺しの悪人としてあらゆる人から蔑まれ、憎まれるでしょう。それらの目に僕は耐えられるのでしょうか。
人の蔑みの目。そのときになってようやく僕は、僕の中に恐怖しかないことに気づきました。一瞬頭の中が真っ白になり、ぽっかりと穴があいたような感触がしました。どこを探しても、つい数刻前まで感じていた焦燥感も、いつも静かに秘めていた妹への恋心も見あたらなかったのです。自分自身をあざ笑いたい衝動に駆られ、そしてそれは確かな絶望感に形を変えました。
なんてことはない、僕はただ恐れていたのです。そして恐れるあまり、もっとも尊重すべき愛情さえも忘れてしまっていたのです。何より雨を見ることと同じように、目的をなくした手段の行き着く先を想像しようとしていませんでした。そうでなければ人の目などまったく気にすることなどなかったでしょう。それに耐えられるか、考える必要もなかったでしょう。
僕はやはり、ただの臆病者だったのです。
手がわずかに動きました。刃に向けてではありません。妹のか細げな肩に、助けを求める幼子のように触れようとしたのでした。
ですが、ついに手はうまく動きませんでした。
冷静な自分が泣いていました。すまない、妹よ。僕はおまえを愛しているのに、この期に及んで我が身の方がかわいいのだ。いいや、そもそも本当に愛しているならば、命を奪おうなどと考える訳がなかったのでは?
妹の目が僕自身に向けられていました。うっすら濡れたような黒い瞳は僕の言葉を待っていました。唐突に、妹が一人で雨を見るのは寂しいから、と僕の手を引いて自室に招いた時のことを思い出しました。妹の手とは正反対の冷たい雨の降る日でした。あの日から何年経ったのでしょう。何が変わったのでしょう。あの日が途方もなく昔のように思えました。
「なら、おまえは雨を愛し続けるのかい」
一生、この冷たくて寂しい雨を愛し続けるというのかい。僕は喉から絞り出すように声を発しました。
妹は答えず、ただ美しい微笑みを浮かべました。それが答えでした。


雨は明け方になって止みました。
その後の日々は心の中に出来た大きな穴を感じながら、いつもと同じように過ごしました。幸か不幸か、その日以降雨はほとんど降らず、妹と雨を眺めることはありませんでした。何度か会話も交わしましたが他愛もない話ばかりでした。あるいは変化を厭う妹は、僕の心の変化にあっさり気付いていたかもしれません。ですが僕は変化などしていないふりをし続けました。妹への愛情は何一つとして変わっていませんでしたが、自分への嫌悪と恥が強く心に根を張り、形を変えていたのでした。
七月に入り、妹はあっさりと嫁入りしました。父は満足げに頷き、僕もなんとか笑いながら送り出しました。僕の硬い笑顔を見た妹は珍しく何か言いたげな目をしていましたが、結局何かを言うことはありませんでした。泣く母の相手をしなければならなかったからです。妹は最後に、大変お世話になりました、と他人行儀に頭を下げました。
良い娘を持ちました、と、涙を拭いながら母は言いました。
「自分があちらへ嫁入りすれば、家は残るのでしょう、と。本当に良い子です。私たちの為に文句の一つも言わずに受け入れてくれたのですから」
僕は何も言わず、空を見上げました。妹は言うなれば、僕らのためにそうなったのです。妹に助けられながらこの先ずっと生きていくことになるのだと悟った瞬間、自分の愚かさに気付いた時のあの絶望感がわき上がってきました。
梅雨の明けた空からぽつり、と雨粒がいくらか落ちてきました。狐の嫁入りでした。
まるで涙のようでした。そう言えば僕は、妹が泣いているところを見たことがありませんでした。降る雨は妹の代わりに泣いていたのかもしれない、と思うと愛しいような悲しいような、よく分からない気持ちになり目の前が霞みました。幸い、目尻から溢れた涙は雨と混ざり、誰にも気付かれませんでした。


僕はどこまでも愚かな人間でした。思うだけ思って行動にせず、あとになってそれを深く悔いるのです。そんなことばかりでした。
僕の後悔はいまだに尽きることを知りません。あのとき、本当に妹を殺めていたら。触れられなかった肩に触れていたら。いいえ、そもそも殺そうなどと考えず、例えば妹を無理矢理でも連れ出していたら。ありえなかったありとあらゆる出来事が僕の歪んだ恋心を突き刺してゆくのでした。
今でも時折、妹が最後に見せたあの物言いたげな瞳を思い出します。今更何を言いたかったのか問う訳にもいきませんし出来る訳もありません。もしかしたら最後の最後に、僕に助けを求めていたのかもしれません。澱のように留まったそれはやはり僕の後悔へと繋がるのでした。
それでも雨は降り続けます。だから僕はただそれを、あのころのように静かに眺め続けるのです。絶え間なく落ちてくる雨粒の向こう側にいるであろう、その人を思いながら。



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