購買で買ったパンに自分の嫌いな物が入っていることに気付いたわたしがまず最初に考えたのは、このパンを誰かに押しつけると言うことだった。その相手として真っ先に思い浮かんだのは現在付き合っている彼氏、そう、彼氏だ。でも彼に、間違っても付き合っている相手に自分の嫌いな物を押しつけるってどうなのかと正気に返った。じゃあ友人だろうか。クラスメイト。女の子。それもなんだか微妙な話だ。最近ダイエットと称して食事量を減らしていたような気もするし、それなら食べ物を渡すのはよろしくないかもしれない。(休み時間にお菓子を食べているのは友人の名誉のために忘れていることにする)
そうこうしているうちに休み時間は終わり、悩んでいる間に放課後になった。パンはいまだわたしのバッグの中で存在感をアピールしている。うっかり潰しそうになりながら教科書を詰め込む。バッグの中がパン臭い。そんな自己主張されてもこっちが困る。
困ったわたしが思いついたのは、アパートに住む男にこのパンを恵んでやろうという、慈悲なんだか哀れみなんだかあるいはただの厄介払いなんだかよく分からない案だった。



玄関のベルを鳴らす必要はない、というよりも面倒くさい。案の定、玄関の鍵は開けっ放しだった。部屋の生ぬるい空気がわたしの頬を撫でる。ローファーを脱ぐ、その足下は乱雑に男物の靴が散らばっている。並べてやった方が良いのだろうかと考え、手を伸ばしたところで止めた。理由はやっぱり、面倒くさい。
部屋のリビングに男はいた。フローリングにべったりと、まるでスライムのように這いつくばっていた。
「……チャイムぐらい鳴らそうな」
呆れたような声は少し枯れてるようだった。もしかしたら今の今まで寝ていたのかもしれない。新貝ちとせ。主に下の名前が女々しいおっさんは、寝転がったままわたしを見ていた。乱雑な部屋の中、わたしは腰に手を当て仁王立ちする。
「ダメ人間に配慮するほど面倒なことはないでしょ」
「ああ、てことはおっさんダメ人間なのね」
「何を今更」
親の遺産で食いつないでろくな仕事をしない人間のどこが真人間なのか。反面教師には最適なのだろうけれど。そう言えばわたしの愛しい彼氏殿はこのおっさんを嫌っていたなあ、と思い出した。彼はまじめだから、ふまじめなこの人を良く思えないのだろう。ついでにあまり関わらないで欲しいと遠回しに言われたことも思い出したけれど、それはもう一度記憶の箱に閉じ込めてロックロック。鍵は捨てる。
教科書で重いバッグを床に一度置き、開く。教科書で潰されていないか心配していたパンはなんとか無事だった。でも鞄の中がパン臭いことは否めない。こういうのってどうすれば良いんだろう。このまま教科書に臭いが移ったらそれはそれで切ない。授業中とか特に。
わたしはそのパンを、いまだ体を起こさない男に放った。びっくりしたように目を見開いた彼は慌てて手を伸ばした。ナイスキャッチ。男の手にすっぽり収まったパンを見て、一仕事終わらせたような気分になる。あとはバッグの臭いがなんとかなればミッションコンプリートと言ったところか。
「あー、念のため聞くけど、これなに」
「見ての通りパン」
「そりゃそうだ。これがパンじゃなかったらなんなんだ。んでこれどうしたら」
「あげる。JKからおっさんにプレゼント。嬉しいだろー」
「うわー嬉しいけど悲しいすげえ悲しい。この年下に哀れみの視線と共に恵まれてる感じがとっても悲しいです」
「事実だからどうしようもないでしょ」
「あーあ、十年前の可愛らしいお嬢さんがこんなになって、どこで道を間違えたんだ」
「食べないんだったら捨てるよそのパン」
「すいません冗談です捨てないでください」
そこでようやく体を起こした彼は、ぼさぼさの髪を手で更にぼさぼさにしながら私の方を向いた。無精髭を生やし、眠たげな目をしている、どこにでもいそうなおっさんだ。青年と言うには年を取っているし、中年と言うにはまだ早い。十年近く前は普通に働く青年だった気がするけれどそれはただ単にわたしの頭が記憶を美化してるだけかもしれない。少なくとも今は、わたしにダメ人間と罵られる程度には堕落した生活をしている。
じゃーいただきます、と律儀に両手を合わせて彼はパンに食いついた。飲み物は要らないだろうかと、わたしはキッチンの冷蔵庫を開けた。まともな飲み物はあまりない。代わりに銀色が眩しい缶はそれなりにある。真っ昼間からビールなんてそんな、ねえ。
がさがさあさって、結局見つけたのはペットボトルのコーヒーだった。無糖、ブラック。冷凍庫を見ると、幸運にも氷があったので、グラスに氷を入れてブラックコーヒーを注いだ。そこまでして、はて、彼はコーヒーにミルクやら砂糖やらを入れる人間だったかと思い至った。
本人に聞くのが手っ取り早い。グラスを片手に、リビングでもさもさパンを食べる男に声を掛けようと、名前を呼ぼうと、
「――――あっ」
して、この男を何と呼べばいいのか分からなくなった。
新貝、ちとせ、おっさん、ダメ人間。ふざけておっさんと呼び、罵るためにダメ人間と呼ぶ。では、普通の時、こんな時、わたしは彼をどう呼んでいた? 声が喉の奥に留まって、わたしは小さく呻いた。
さて、十年前のわたしは何と呼んでいた? 九年前は? 八年前は? そして、今は? 思い出せない。
声を掛けられない。思考が停止する。たかだかそんなことに、わたしは何故悩んでいるのだろう。馬鹿らしいと頭のどこかで自分を嘲笑いながら、喉は声を発することを忘れていた。
「ん、どうした?」
呆然と立つわたしに気付いた彼が、不思議そうな顔でこちらを見ていた。ようやく奇妙な硬直がとけ、わたしは一つ息をつく。手にしたグラスがひどく冷たい。
「コーヒー」
「おお、ありがとう」
「……ブラックで良かった?」
「だってミルク無いし。悪くすれば砂糖もないかも」
「…………」
さすがダメ人間、とさっきまでの違和感を塗り隠すように、若干の嘲りを込めてわたしは言う。彼は笑う。はいはい、口が悪いな女子高生、と彼もまた、わたしの名前を呼ばないことに気付いたことに意味はあるのだろうか。きっと、ない。




キャラクター提供:tbtm99氏


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