「あついねえ」
 歩き始めて一時間、初めてスイがそう言った。そんなことはこれっぽっちも思っていないかのようなスイの声にサユルは空いた片手で汗を拭う。確かに暑い。七月を半ば過ぎた午後一時は、太陽が容赦なく歩く二人を焼こうと日光を浴びせてくる。
 あるいは、繋いだままの手がそうなのかもしれない。汗ばんだ手はもはやどちらの汗のせいなのか分からないが湿り気を帯びていて、それが妙に現実感がなかった。生まれた時からそうだったかのように手は固く結ばれている。それ以外の形など知らないかのように、手は離れない。
 真新しいキャミソールワンピースの、ずれたストラップをスイの片手が掬う。しなやかな白い手だった。人並に日焼けしたサユルの手とスイの手は面白いほど色が違う。繋いだ手がよりいっそうそう思わせているのかもしれない。
 確かに暑いな、と声に出さずに同意する。そしてそれとはまったく違うことを呟いた。
「海、遠いな」
「そうだね。あるくのはすこし、無謀だったかな」
 サユルはちらりと横を歩く少女の足を見た。ターコイズブルーのサンダルを履く足はゆっくり歩き続けている。右、左、右、左、とまだ歩き慣れない子供のような、慣れない足取りだった。
 更に自分の足を見た。すり切れボロボロになったスニーカーは現役で、まだまだ歩けると主張していた。歩くのが苦手なスイの為に、また少し速度を落とす。僅かな心遣いに気付いたらしいスイが、手を軽く握り返してきた。
 松林を横目に歩き続けると、一際強い風が吹いた。潮の匂いを含んだ風は海が近付きつつあることを二人に伝えて去っていく。緩くまとめたスイの髪がさらさら音をたてて宙に舞った。サユルの短い髪の毛も同じように揺れ、額に浮かんだ汗が風で僅かに乾く。海から吹いた風は生ぬるいが、照り続ける太陽に比べれば幾分かマシだった。
 スイが小さくハミングをしていた。周りの音に掻き消されそうなほど小さな声を聞き逃さないよう耳を澄ませ、それでいて気付かないふりをする。聞いたことのないメロディは、やがて聞いたことのない言葉に変わった。スイの歌声は不思議と甘く耳に残る。穏やかだが、それでいてもの悲しいメロディだった。彼女はよく歌を歌う。だがその歌が一体どこで、誰が歌ったものなのか、サユルは未だに分からない。
「――――」
 乾燥した唇が小さく動いて、歌を歌い続けていた。その白い横顔を汗が一筋滑り落ちた。流れていないはずの自分の頬を無意味にこすり、サユルは行き場の無くした片手をただぶらん、と下げる。
 海に行きたくないな、と不意に思った。また少し歩くスピードを落とす。スイは上手く歩けない足を引きずるようにしながら、ただ歌い続けている。怪我をした訳でも欠陥がある訳でもない白く細い足は、必死で地を踏みしめている。
「なあ、スイ」
 アンデルセンの人魚姫は、恋した相手にもう一度会うために、自分の声と引き換えに激痛の走る人の足を得たという。そして恋の叶わなかった人魚姫は泡になって消えてしまった。声と役に立たない足はそれを対価とするにはあまりにバランスが悪いのではないか。幼い頃からサユルはそう思い続け、それは今も変わっていない。
 だがスイは、声をなくし、泡になった哀れな人魚姫ではない。
「おれ、海、行きたくないなあ」
 力を込めて繋いだ手を握る。スイは歌うのを止め、ただ悲しげに微笑んだ。サユルは唇を噛みしめ、そして歩き続ける。彼女を海まで送ると約束したのは、他ではない彼自身だからだ。
 スイは人魚姫ではない。恋のために声をなくし、不自由な足を手に入れ、泡となって消えるストーリーなど存在しない。だが、歩き慣れない足を捨て、遙か遠い海の向こうへ帰ることは確かで、そしてそれを変えることはサユルには出来ない。サユルが律儀に約束を守るように、スイもまた、誰かとの約束を果たすためにこうして海へ向かう。約束を守ることの辛さをサユルは知っている。
 スイが歌う。誰にも分からない、スイにしか分からない言葉で。
 金色の日差しが降り注ぐ、その上を仰いだ。きっと海は、高く昇った太陽の光で輝いているのだろう。そして少女はそこに消えていくのだ。別れの時は近い。
「行きたくないよ、スイ」
 答えはない。はいともいいえとも言わない歌だけがスイの答えだった。
 少女の細い指がサユルの指に絡み、そして強く力が込められる。答えるようにサユルもまた力を込めた。痛いほど強く繋いだ手はお互いの体温でひどく熱い。それでも離そうとは思えなかった。
 もの悲しい歌は止まない。
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