あなたはずっと少女のままでいてね。母の言葉が頭の中で響く。
まるで呪いのようにわたしの頭に、耳に、体に染みついた言葉は鎖となって、この手を縛り付けてくる。わたしはそれを振り切って穴を掘る。さして広くもない庭に、深い深い穴を掘る。玩具みたいなスコップは軽いはずなのに妙に重い。鮮やかに芽吹き始めた草を踏みにじり、指先で残酷にむしり、少しずつ土を削り、削られた土は山となって積もっていく。
 あなたはずっと少女のままでいてね。スコップで地面を穿つたびに母の声はわたしの中で再生され、そのたび見えない鎖の締め付けが酷くなる。体が上手く動かない。半開きの唇から涎がつう、と落ちて土に丸く模様を描いた。糸を引いたそれは落ちきると、音も立てずに途切れた。湿った唇は冷えた外気に晒され、体温はゆっくりと奪われていく。
 決して寒くはない。日々落ちるのが遅くなる太陽は今、わたしのちょうど頭の上で輝き眩しい金色を地面に放っている。遠いアスファルトが陽炎をたちのぼらせ、芽吹いた緑で道は色鮮やかだ。だというのにわたしの手はみっともなく震え、白く晒された手首は泥にまみれて見る影もない。伸びた爪に土が挟まり、指先が窮屈だった。
 それでもわたしは無言で穴を掘る。埋めるために。埋めた物がもう二度と日の目を見ることがないように。深く深く穴を掘る。穴の底にいくつもの思い出を埋め、その上に土をかけて葬るのだ。
 振り向けば、土の山に隠れるようにわたしの思い出達が転がっている。青いリボン。赤い髪留め。甘い香りのする消しゴム。カラフルなサインペン。きらきらしたネックレス。イミテーションの指輪。わたしの過去が、少女だったわたしが、そこに転がっている。
 あなたはずっと少女のままでいてね。
 あるいは母の言葉はただの願いだったのかもしれない。腹を痛めて生んだ子供がどうか純粋に育ちますように、という母親らしいエゴだったのかもしれない。だがその言葉は毒のように体を蝕んでいく。
 吐き気がした。もうとっくの昔に収まったはずの吐き気は母の声に同じように響いて、わたしの体を腹からだんだんと浸食していく。頭を振れば、日光に照らされ熱を持った髪が乾いた音をたてた。くらくらした。陽炎がゆらゆら揺れているように、頭の中も揺れている。きっと今のわたしの瞳は暗く沈んだ色を宿していることだろう。
「……ふ、う、うぅ」
 また涎が垂れたと思ったが、それは口からではなく目から落ちたものだった。泣いているのだと気付くのに少し時間がかかった。不明瞭な呻き声は低くひび割れ、まるで老婆のようだ。
 土を掴んだ左手の、薬指が光る。銀色の光は咎めるようにわたしの目を突き刺す。真新しいそれはわたしの指にぴったりなのに似合っていない。おまえにはまだ早いのだと嘲笑っているようだ。まだ成熟しきらない体を持て余すわたしには、まだ。
 けれどわたしは少女のままではいられなかった。少女でいるにはあまりにも多くのことを知りすぎた。腹が痛む。吐き気がする。体が重い。人に愛される喜びはわたしの腹にもう一つの命を宿した。それが鈍く痛み、わたしの体を圧迫する。腕に絡みついた鎖が腹にまで伸びてしまったように、体がうまく動いてくれない。それでも必死に子供じみたスコップを動かし、地面を削っていく。
(あなたはずっとしょうじょのままで)
 壊れたレコードが同じことを繰り返し続け、だんだん狂っていく。もうやめて、と耳を塞ぎたかったのに腕は穴を掘るだけで、それ以上持ち上がりはしなかった。みっともない泣き声をあげながら、わたしは声を振り払おうと必死で目の前に視線を落とす。掘り終えた穴は底なし沼のように黒く濁っていた。
スコップを投げ捨てる。手がからっぽになったことを恐れるように、わたしは急いで手を伸ばす。土の山の後ろから、幼い宝物達を拾い上げて穴の上で手放した。青いリボン。赤い髪留め。甘い香りのする消しゴム。カラフルなサインペン。きらきらしたネックレス。イミテーションの指輪。それらすべてが軽い音を立てて穴に落ち、泥にまみれて汚れていく。掴みきれなかった細々とした物達はいまだに転がっていた。それを震える指先でつまみ上げて穴に落とす。けれど、うまく捨てられてくれない。
 はやくすべて穴に捨ててしまって、土をかけてしまわなければ。自分はもう少女ではないのだと、そう証明するように。そうであった頃のことをすべてなかったことにするように、何もかも葬り去るのだ。

 そうすることで楽になれると、愚かな私は信じ切っていたのだ。

 土を踏む音が遠くから聞こえ、それはあっという間にわたしの側に寄り添った。逞しい腕が伸び、わたしの体を抱きしめる。わたしの左手にしがみついたそれと同じ銀色が、大きな手にも輝いていた。
「もういい」
 腹の中で子供が泣いている。早く生まれたい。早く日の光を浴びたい。早く柔らかな腕に抱かれたい。愛されたい。必死でわたしの腹を蹴り、もがき、生きようとしている。
 ごめんなさい、お母さん。わたしは悪い子です。あなたが望んだ通りのままではいられませんでした。
それでもきっと、わたしもまた自分の子に願うのだろう。母がわたしに望んだように、どうか純粋なままでいてほしいという切実な願いを込めて嘯くのだろう。自分のことは棚に上げ、まだ何も知らない子供の、真っ白な記憶をそうやって塗りつぶすのだ。
 あなたはずっと少女のままでいてね。
「もういいんだ」
 震えるわたしの体を抱きしめ、彼はもう一度繰り返す。力が込められた腕は温かで、冷えた体をじわりじわりと侵していく。それが今はひどく恐ろしいことのように思えた。だというのにわたしはぬくもりを貪るように泥だらけの手で縋る。
 ぽたり、落ちたのはわたしの涙だった。未だ埋まりきらない少女だったわたしは、涙でぼやけた視界の中で白く輝いていた。
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