世界の果ては青色をしていると君は言う。


 完璧にデザインされた姿。生きた芸術作品、あるいは人形。白金色の波打つ髪に、不思議なほどに澄んだ空色の両目。きめ細かで汚れのない柔らかな肌。着る服はすべてデザイナーに特注した高級品だという。何もかもすべてたった一人のために用意されたものを身につけ、生きた人形は冷たい顔をしていた。
 デザイナーズチャイルドなどこのご時世、これっぽっちも珍しくない。まだヒトの形すらしていない段階から手を入れて、体を構成する情報をいじられ生まれてきた彼らは総じて美しい。肌の色も目の色も、髪の色さえ好きに変えられ、親の理想を忠実に受け継いだ彼らはその名の通り、デザインされた子供だ。
 だが、それにしても、僕の横に立つその人は美しすぎたのだった。彼とも彼女とも区別のつかない中性的な美しさをした奇跡の子供。まだ第二次性徴を迎えていない年齢で生物学を専攻に大学院を出た頭脳を持ち、何をやらせても人並み以上の成績を残す。僕がその名を知ったのは、世界的なアートコンテストの表彰式でだった。その時もやはり、上から下まで隙なくオーダーメイドで身を包み、けれど今のようなさめた顔ではなく微笑を浮かべていた。その微笑に誰もが目を奪われ、司会進行の女性が声を詰まらせていたのを覚えている。確か、七歳くらいだっただろう。それくらいの子供に会場のすべての人々が夢中になってしまったのだった。
 今思えば、あの表情こそ偽物だったのかもしれないが。
「……レイ」
 本名ではなくそう呼んでくれと、懇願されたのはいつの頃だっただろうか。大人びた顔は、そのときばかりは年齢相応の幼さと悲しみで彩られていた。美しい人は悲嘆に暮れた表情でさえ美しかった。
 薄暗い中にひっそり佇み、レイは目の前の水槽を見ていた。物言わず立ち尽くす姿は等身大の人形のようで、触ればその肌はつるりとした陶器なのではないかと思うと手が震えた。僕の声など届いていないのだろうか、何も反応はなかったが、しかしひっそりとした水族館の中で声が届かないと言うことはないはずだった。なによりレイは、僕より数倍耳が良い。たとえ後ろをカップルが愛を囁き合いながら通り過ぎようが、甲高い声を上げて幼児が走っていこうが、その耳に聞こえていないはずがない。だとすれば、反応したくなかったのか。僕より頭二つ分小さなレイの体はぴくりとも動かなかった。
 僕もまた、厚いガラスで遮られた水中を眺めた。海底を模した大きな水槽を、様々な魚が泳ぎ回っている。銀色の小魚の群が、頭上から差す光を受けて輝いていた。その光は水の色を透かして青色に変わり、僕やレイを照らす。青い光と、黒い影。たゆたう水の波紋が足下で揺らめく。
「きみは、世界の果てを知っているかい」
 答えが返ってきたのは、それから数分してだった。答えといっても返事ではない。むしろ僕の呼びかけなどなかったかのように、何の脈絡もない問いとして僕の元へ戻ってきた。
 いまだに成長期を迎えていない子供の、不安定な高さの声だった。それでいて人の耳に残る声だから、やはりレイは完璧なほど完璧に設計された子供なのだった。その声で聖歌でも歌ったら、きっと信仰心の厚い人々でも身を投げ出して涙を流すんじゃないだろうか。あいにく、僕はレイが歌っているところを見たことも聞いたこともなかったが。
「君の言う世界をこの星だとするのなら、僕は知らないな。この星は丸いから、端がない。存在しない物は分からない」
 さして深く考えず、僕はそう答えた。何も面白味もない模範的な解答だった。
「やっぱり、きみも知らないのか」
「たぶん、世の中の誰も知らないよ。いや、哲学者なら知ってるかもしれないけど」
「あいにくぼくは、哲学者が嫌いなんだ」
「知ってるよ。君は彼らと相性が悪い。何より君は理系の人間だからね」
「そうとも。思想で誰が救えると言うんだ」
 いつもと変わらない軽口が返ってきて密かに安心しつつも、僕とレイは一歩も動かず水槽を眺めていた。見た瞬間は物珍しさに目を見張ったが、慣れてしまえば退屈な光景だった。それは、水槽の中を泳ぐ魚達も同じなのだろうか。
 あくびをかみ殺し、唐突に襲いかかってきた眠気に対抗するように、僕は自分の手のひらに爪を立てる。
「君はどうしてそんなことを言い出したんだ。世界に果てなんてないと、数世紀前から答えはでているだろう。君がそれを知らないはずがない」
「知りたくなったからさ」
 一拍おいて、レイは続けた。
「数世紀前の更に前。人々にとって世界は平面で、だから世界の果てがあった。彼らが言う世界の果ては、海が途切れ落下していく、そういうところだったらしい」
「そうらしいね。まるで滝のように、海が垂直に落ちていくんだろう」
 けれどそれはただの夢物語だ。現実は海が垂直に落下していくようなことはなく、どこまでも続いてやがて一周する。この世界はどこにも行きようがないのだ。地図の果てのその先はなく、ただぐるぐる回るだけの球体に閉じこめられている。終わるどころか最初から完結してしまっているのだから始まりすらないのだった。
「君は、世界に果てがあって欲しいのかい」
 問い返すと、レイは少し考えたようだった。首を傾げた拍子に白金の髪の毛が揺れ、さらさらと微かな音を立てた。その髪色すら青く染め、水槽から光が落ちてくる。
「ぼくは、世界の果ては青色をしていると思うんだ」
 そしてやはり、レイは僕の問いに真っ正面から答えることはなかった。
 ふあ、と間抜けな声を上げて僕はあくびをした。二度目のあくびはかみ殺すことに失敗し、とても呑気に水族館の中に響く。鋭い視線はレイのものだった。澄んだ空色の目が剣呑な光を宿して僕を見ていた。
 僕はそれに気付かないフリをする。
「君がそういうなら、そうなんだろうさ」
 そもそも世界の果てがどんな姿をしているか、僕には皆目見当もつかないが。
「なら、一緒に見に行こう」
「世界の果てを?」
「世界の果てを」
 数分前まで存在の有無を話していたような存在を、レイは見に行こうと淡々とした口調で僕に提案した。胡乱げに聞き返せば、いたってまじめに答えが返ってきた。まるで幼い子供のようだと思ったが、しかしレイは、年齢だけで考えるならばまだ夢を語っても許されるくらいの子供なのだった。
 だがその言葉を、ただの夢物語だと笑って適当に返事が出来るほど、僕は幼くなかったのだった。今度は僕が、レイの提案に肯定も否定も返さない。冷たい沈黙だけが残る。
 目の前を、名前も知らない大きな魚が悠々と泳いでいた。それがぼやけて見えて、僕は目を何度かこする。とにかく眠い。眠気で目が霞んでいるのだ。
「……帰ろう。やっぱりきみは、外に出ちゃいけなかったんだ」
 耐えきれなくなったかのように、レイは僕の手首を強くつかんで引っ張った。僕より小さな体すべてを使って、水族館の出口へ連れて行こうとする。けれど僕の方がよっぽど重いし大きいから、結局レイは僕を動かすことは出来なかった。
 見下ろした僕の手首は、レイの手よりも青白い。それは決して水槽から射し込む光で青ざめているわけではない。むしろそちらの方がよっぽどうれしい理由だったのに。骨張った、やせた手首を見て思う。
「もう良いよ」
 そう囁けば、レイはいつかのように悲しげな顔をした。
「もう良いんだ、レイ、大丈夫だよ。僕は大丈夫」
 きっと僕はレイと一緒に、世界の果てを見に行くことなんて出来ないだろう。世界の果てなんて物があってもなくても、確かめるための旅にでることは絶対に出来ない。もしも出来たら、と考えると胸が躍るけれど、けれどやはり、無理なのだ。ひどい眠気が襲ってくる。ここで眠ってしまったら、次は目が覚めないんじゃないだろうか。そういう恐怖を伴って、あらがいようのない睡魔が僕の体を蝕んでいく。
 七歳のレイと僕が出会い、それから何年経っただろうか。だんだん睡眠時間が増えていき、最終的にずっと眠り続けて緩やかに死んでいく。そんな病気にかかっているのだと僕が告白して少しして、レイは芸術の世界から姿を消した。レイが大学に入って大学院へ進んで博士になって、そして再会した頃には僕はもう、一日の半分を睡眠に費やしていた。
 病室に駆け込んできた子供の、絶望した顔を今でも覚えている。レイが芸術を捨てた理由が分からないほど僕は野暮ではないけれど、事実を隠し通すことが出来るほど強い人間ではない。ヒトはヒトの意思で生まれてくる子供を選ぶことが出来るようになったけれど、いまだに治すことの出来ない病がある。いや、むしろ、そうなったからこそ治せない病が出てきたのか。ヒトの進化にあわせて、病もまた進化したのか。それは僕にも分からないけれど、終わらない眠りに近付く人々の中には、僕も含まれてしまっているのだ。
 だから僕はきっと、レイを置いていくだろう。世界の果てを見に行くことは出来ない。それを見つける前にきっと僕は目覚めない眠りについてしまう。
 不意に視界の隅で何かが舞ったと思ったら、とん、と軽い衝撃が僕の体を襲った。一拍遅れてレイの、緩く波打った白金の髪が元のようにその薄い背中に落ちる。一瞬だけふわりと舞ったその髪の毛はきらきらと輝いて、まるで細工物のようだった。
 レイは僕の体に顔を埋めていた。小さな手が僕の背に回り、不器用に力が込められる。僕もまた、小さな背中に腕を回した。手のひらで撫でれば浮き上がった背骨が、柔らかな肌が、なめらかな服の生地の上からも分かった。
 何も言わないまま力を込めるレイに、僕は頭上をぼんやり見上げた。そして水槽へと視線を移す。青。そしてやはり、青。水の色。押さえられた照明と、黒い影。色の少ない空間で、水槽の色だけが鮮やかだった。
 ああそうか、と一人納得した。
「ねえ、レイ。君は世界の果ては青色をしていると言ったけれど」
 この世に果てなどあるか僕は分からないし知らないけれど。でも、君がそういうなら、そうなんだろうさ。
「それならここが世界の果てだって構わないよ」
 何より君がそこにいるのなら、もう何もいらない。ほんの僅かな合間の後、レイがいっそう強く僕の体を抱きしめた。小さな嗚咽が聞こえて、ああ、やはりレイはヒトなのだと、決して人形なんかじゃなかったのだとなぜか安心した。そしてやはりその泣き顔は美しいのだろう。決して僕には見せないその泣き顔は、最初からそう設計されていたかのように。
 レイは世界の果ては青いという。ならば僕は、世界の果ては美しいのだと、そう思う。

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