人がいなくなった頃合いを見計らって、アトリエに忍び込んだ。最低限の電気をつけ、イーゼルに架けられた絵に近づく。キャンバスの中で微笑む女性を見つめた。夢見るような柔らかな眼差しは静かにこちらに視線を返してくる。
深呼吸をした。



「三木は、絵に恋したことある?」
山崎がそう言い出したのは、作品展に出す作品を制作しようと、二人で画材店に行ったときだった。
山崎はしゃがみこみ、棚に納められた油絵の具のチューブを手に取っていた。チタニウムホワイトという、白色の中では最も着色力と隠蔽力に優れた色だった。その隣に同じようにしゃがんだ三木は、少し考えて逆に問い返す。
「なんでそんなこと言い出したんだ」
伸びた前髪の間から、山崎の真っ黒な目が三木を見つめていた。一瞬息が詰まった。山崎という青年の目は時折恐ろしいほど暗い。
チタニウムホワイトの大きなチューブを片手に、今度は別の棚を漁りながら山崎はしばらく何も言わなかった。いつものことだった。会話を続ける気がないのかはたまた気まぐれなだけなのか、彼とコミュニケーションをとることは難しい。仕方なく三木も買う必要のない絵の具を探した。自分の持つ油絵の具に足りない色はなかったか考えたが、足りなくなったらすぐに補充する癖のある三木にとっては不毛なことだった。それに加えて作品制作が遅れている山崎と違い、三木の作品はほぼ完成している。山崎に画材を買いに行こうと言われなければ、おそらく家でぼんやりしていたことだろう。
意外にもすぐに、答えは返ってきた。
「モデルさんに聞かれたんだよ。自分のじゃなくても、とにかく誰かが描いた絵に恋したりするんですかーってさ」
「ふうん。モデルって」
絵の具のチューブを手に取った、不安定なポーズのままで聞く。
「一ヶ月くらい前に、裸婦画のモデルになってくれた女の人」
思い出すように宙に視線を漂わせる山崎の隣で、三木は彼が一ヶ月前に見たというモデルを思いだした。三木も同じように見て、観察して、スケッチブックに描いた女性だった。チョコレートブラウンに染めた髪の毛は長く、均整のとれた体型をしていた。彼女は終始微笑みを浮かべて椅子に座り、それを山崎は左斜め前から、三木は右斜め前からデッサンした。
緩やかな弧を描く唇の形や、わき腹のすらりとしたライン。左右の違いはあるが、まったく同じ角度で二人は同じ人物を描いた。そのことを思い出しローズピンクのチューブを握りしめそうになっていた手を慌てて開く。山崎はいつの間にか中腰になり、別の棚を覗いていた。視線は棚に向けながら、またいくらかの沈黙を挟んで彼は言う。
「それ聞いて思ったんだけどさ、自分の描いた絵に誰かが恋したら面白くないか?」
「……」
「気に入った、好きだって人はいくらでもいるけど、恋をするって言うのはなかなか聞かないし」
山崎は明るく、同意を求める笑みを浮かべていた。笑っているのに、三木には山崎の目が明るい色をしているようには思えなかった。彼の目を見るたびに自分のどこかが馬鹿にされているような気がしてならないのだ。もちろん彼にそんな気がないことは三木も重々承知している。それでも拭いきれない印象は、同意を求める表情も言葉も、何もかもを変化させてしまう。
初めて会った時からそうだった。人を魅了してやまない絵をいとも簡単に描く彼に、三木は劣等感に似た感情を抱き続けている。どろどろした感情の渦は山崎の暗色の目によく似ていた。そしてそれを自覚している一方で、彼の絵を心の底からすばらしいとも感じているのだ。真逆の二つの感情を必死に隠しながら、三木はただ押し黙ることしかできなかった。
アトリエで見た、山崎の作品を思い出す。裸婦画のモデルを元にしたという美しい女性が微笑んでいる絵は確かに笑顔がよく似ており、鮮やかな色をした目は生気を持って輝いていた。それを見て魅了されたと同時に愕然としたのだ。同じ女性を見ていたはずなのに、山崎の描いた女性は何もかもが違った。その瞬間、今まで彼の絵に覚えていたはずの感動が、渦を巻く底なしの感情に飲み込まれたのを自覚した。感嘆と嫉妬のバランスが崩れた瞬間だった。
そしてそれは、今も変わらない。
「だから気になるんだよ。なあ、三木は、絵に恋したことってある?」
ただ、胸の奥がちりちりと痛む。人知れず噛みしめた唇はそうでもしなければ意味を成さない呻き声が零れてしまいそうだった。何も知らない山崎は、横で自分の作業に没頭している。彼の暗い目は今は三木には向いていない。彼の目と、あの絵の女性の生きる喜びに満ちた目は少しも似ていない。もしもあの女性の目が、山崎と同じ色をしていたらどうなるのだろうか。
三木は立ち上がった。山崎も少し遅れて腰を上げる。彼はチタニウムホワイトのチューブの他に何本か抱えていた。三木の手には何もない。だが、一本買わなければいけない色があることに気づき棚に手を伸ばした。
ジェットブラックのチューブは、棚の奥にひっそり収まっていた。



深呼吸をした。
アトリエに満ちた画材の匂いが肺を満たす。絵の具や油、はては洗剤を思わせるありとあらゆる匂いが混ざった部屋の窓際に、山崎のイーゼルは立てられていた。イーゼルの前に立ち、三木はじっとキャンバスを見つめてその姿を目に焼き付けた。女性の絵からは乾ききらない油の匂いがする。生きていないその姿を目の前に、三木は自分の心がひどく落ち着いていることに気づいた。
完成間近の女性の唇に触れた。塗り重ねた絵の具で僅かながら盛り上がった唇は柔らかくなく、温かさも感じない。何度も何度もその唇を撫で、淡い色に似合わない無骨な感触を指先で記憶する。
なあ三木、絵に恋したことってある? 山崎の問いが再生され、目の前の女性が彼に変わる。それはただの幻だった。女性は女性のままで、ただ穏やかで慈愛に満ちた目をしている。幻は驚くほどあっさりと消えた。
答えなかった彼の問いに心の中で静かに答えた。ああ、そうだとも、俺は恋をしているんだ。何よりも嫉妬しているお前が描いた絵に俺は今も恋をしているんだ。この女性だってそうだ。俺はいつだってお前の絵に憧れて、馬鹿みたいな恋慕を抱き続けている。生きてすらいない存在に向かって。
おそろしく馬鹿なことをしていると、三木自身がよく知っていた。本当に良いのか考えている頭を無視して体は動き、ポケットの中から真っ黒な絵の具のチューブを取り出していた。蓋を開け、中身を絞り出し、人差し指にのせる。ひんやりとした半固体のそれは艶やかに、自分の役目を果たそうと存在を主張していた。
頭の中とは逆に、動く体に躊躇いはなかった。まるで生きているように美しいその目を潰すために、三木は黒い絵の具を指先で、力を込めて塗った。低俗雑誌に載っている、黒いテープで目を隠した写真のように黒く、黒く。
自分が恋した絵を自分の手で台無しにしていく行程は興奮も後悔も、何も生み出さなかった。目という存在を消し去ってもなお物足りなく、だがそれ以外を塗りつぶす気にはならず、結局何度も何度も同じ所に黒を塗り重ねる。色鮮やかなキャンバスの中でそこだけが異常だった。それでも美しいと思ってしまうのは、恋する人間が相手に盲目になることとよく似ている。小さく笑った。文字通り、目が塗りつぶされた女性は盲目と同じだったからだ。
なあ三木、絵に恋したことってある? もう一度頭の中で言葉が再生されるのを感じながら三木は立ち尽くした。息を止めるほどに真剣に目を塗りつぶした絵はどこか背徳感に満ちあふれていた。いつの間にか額に汗が浮かんでいるのを拭おうとして止めた。作業の間に手の甲まで汚れてしまっていたのだった。達成感をこめてため息をつく。やってはいけないことをやった罪悪感よりも、不安の種を一瞬で潰した時の安堵感が心の中に満ちていた。
それじゃあお前はどうなんだ、山崎。安堵で緩んだ頭が一つの答えを導き出す。問いかけられたあの時に、そう聞き返せば良かったのだと今更のように気付いた。指先で絵の具が乾いていく。目をなくした女性は今もなおその唇で、その頬で、微笑んでいた。それを見ながら、彼の同意を求める笑みは一体何に同意を求めていたのかを考えた。
白と黒が存在しないほど色鮮やかに描かれた女性は微笑み続けている。既に完成し、布が掛けられた自分のイーゼルへ三木は振り返った。チタニウムホワイト、そしてジェットブラック。山崎の絵に使われていない色を、しかし彼はあの時の画材店で抱えていた。三木が、自分の絵に使わない黒色を買ったのと同じように。
夜のガラスに映った三木は、自分の目が山崎と、果ては自分が台無しにした女性の目と同じ真っ黒な色をしていることに気付いた。アトリエには乾ききらない絵の具の匂いがただ強く、漂っていた。



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