愛してる、と小さく呟くと、知ってるよ、と答えが返ってきた。
もちろん私は返答など期待していなかった。飛行機の轟音で遮られるほど小さな声を発したはずだった。相手に伝わらなくても良いと、そう思っていたからだ。いわばただの独り言にすぎない。それに答えられて驚かないはずがなく、私は静かに動揺した。
彼がおかしげに笑ったのが分かった。それに気づいて憮然とした表情を作った。自然と声も憮然としたものになる。
「知ってる、だなんて、ずいぶんと自信があるのね」
「そりゃあね。きみは素直な人じゃないが、それぐらいは分かるさ」
「嘘だって思わなかったのかしら」
「思わないよ」
彼の声と周りの乗客の囁き声が重なって、まるで雑踏に紛れ込んだような気分だった。声、声、声。小さいはずのそれらが幾重にも重なりあい、更に飛行機の音が混ざる。軽快な音楽を鳴らすラジオはもう止めている。指先に絡むイヤフォンのコードをいじると、プラスチックのイヤフォンがぶつかり合ってからから鳴った。
飛行機はまっすぐ進み続けている。
「それより、どうしていきなりそんなことを言い出したんだい」
「なんとなく、よ」
「そう、じゃあ、僕も言うけれど、結婚しないか」
イヤフォンが膝の上に落ちた。
周りのさざめきが聞こえなくなったけれど、それはきっと私の錯覚だ。辺りに私と彼以外誰もいないような、それこそ二人だけの世界に陥ってしまったような気がした。
平静を装って問う私の声は震えていただろう。
「どうしてこのタイミングで言うの」
お互い顔を見合わせない。それが悪いことか何かのように二人でただ前を見つめる。淡々とした声で彼が言う。
「本当は飛行機を降りて、ホテルについて、ディナーの時にと考えてたんだけど」
「ちゃんとプランはあったのね」
「そうさ、ちゃんと考えてたんだ」
緊張したふうもなく話す彼は、どこか拗ねているようにも聞こえた。まるで子供みたいだ。彼なりにこうしようああしようと考えていたのに、結局こんな状況で言うことになって不本意なのだろう。ようやく私は笑った。
イヤフォンが膝から滑り落ちて、床に転がった。軽い音がする。そして辺りのざわめきが戻ってくる。
彼は私の言葉を待っている。
「……そうね、結婚、したいかも」
「かも、なのかい」
「いいえ、したいわ」
「じゃあ、そうしよう」
「ええ、そうしましょう」
彼と結婚する。その言葉がすとん、と体の中の収まるところに収まったような気がした。パズルの最後のピースをはめたときのような喜びと満足感がそこから溢れだしてきた。そして押し寄せてくる不安も感じた。数分前、なぜ自分が愛しているといきなり言い出したのかようやく分かった。私はただ、不安だったのだ。
ぼろぼろと泣き出した私の頬に彼の手が触れた。慈しむような手つきで涙を拭う。涙は熱く、手は温かかった。
「結婚式を挙げたいな。きみには真っ白なドレスがよく似合うと思うんだ」
「あなたも、タキシード、似合うと思うわ」
「式を挙げたら、二人で旅行に行こうか。でもその前に引っ越す必要があるかな。がんばって一戸建てを買おう」
「庭があると良いわね。そう、旅行に行くならうんと遠くに行きたい」
「良いね。イタリアなんてどうかな」
「すてき」
なんでもない未来のことを話しながら私たちは体を寄せ合った。来るかも分からない先のことは不思議と甘く、私の中に染み込んでいった。不安は確かにそこにある。その塊を優しく包み込むように彼の声が私に届く。暗い感情とは裏腹の、花が咲くような幸福感がそこにあった。
一度戻ったはずの周囲の声はもう聞こえない。靴に軽いプラスチックが当たった。イヤフォンが音を立てる。聞こえない向こう側のラジオは今も、軽快な音楽を歌い続けているのだろう。関係のない雑踏など聞こえなくて良い。
「ねえ」
「なんだい」
「愛してる」
「僕もだよ」
数分前の言葉を繰り返し、涙を流しながら私は小さく笑った。彼も穏やかにほほえんだ。ただ、幸せだった。

たとえ三分後、制御できなくなった飛行機が、一直線にビルにぶつかったとしても。



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